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第142回  去り行く人々

皆既日食前後はいろいろと気が乱れるらしく、自然界でも人間界でも様々な出来事が起こる。今年の上半期も忌野清志郎、三沢光晴、マイケル・ジャクソン、ピナ・バウシュが亡くなり(マイケルとピナは外国人だが)、麻生の衆議院は解散し、中国地方では豪雨災害で酷いことになった。これからが夏本番。本でも読んで静かな日々を過ごしたいものだけれど、まだまだ気の乱れの影響がそこかしこにありそうで怖い。

有名な方が亡くなると、決まり切ったように並ぶのが著名人のコメント。中でも気になったのはマイケル・ジャクソンへの追悼の言葉。
「身近な存在だと思っていたので残念です」中澤佑二(サッカー日本代表)
「さみしいというか・・・、もったいない」梨田昌孝(日本ハムファイターズ監督)
「世界的な英雄を失った」金大中(韓国の第15代大統領)
  このお三方のコメントがニュースとして携帯電話に流れてきた。

なんだろうかこの人選。マイケル・ジャクソンは曲がりなりにもミュージシャン。少なくとも日本のミュージシャンや音楽関係者などにコメントを求めるのが普通なのではないだろうか。それなのに、サッカー選手と野球の監督と元韓国の大統領という人選はわけがわからない。
  コメントを求められた人たちからも、何故に自分たちが・・・、というような戸惑いを隠せないような声が聞こえてきそうだ。

中澤、梨田、金大中、この三方にマイケル・ジャクソンのことを聞く方が間違っている。特に中澤はマイケル・ジャクソンのことを「身近な存在」と言ってしまっている。この日本において、マイケルのことを身近な存在と言い切る人間がいたとは少しびっくりだ。だって彼はどこの誰がみても世界的大スター。誰にとっても身近な存在どころか、ものすごく遠い存在に違いない。中澤だってもちろんそうだろう。ただ、気の利いたコメントが思いつかなくて、つい言ってしまったのが「身近な存在」という言葉だったのだろう。こんなコメントを言わされてしまった日本サッカー界の守護神中澤が可哀相でならない。

忌野清志郎、三沢光晴、マイケル・ジャクソン、ピナ・バウシュ、今年二十歳になる平成元年生まれの息子にこの中の何人を知っているか聞いてみた。マイケルのことは整形を繰り返しているヘンなミュージシャンとして知っていて、清志郎氏のことは曲だけは聴いたことがあって、三沢氏やピナについてはまったく知らなかった。平成元年生まれの息子は、プロレスや舞踏にはいっさい興味がないようだ。

そういえば先日、日頃通っている大学に向かうバスの中で、学生たちの会話が耳に入ってきた。
男の学生「俺さあ、チェ・ゲバラって好きなんだよねー」
女の学生「あっ!私もチョー好き!!」
男の学生「いいよねー、チェ・ゲバラ」
女の学生「すごくおいしいよねー」
男の学生「???」
女の学生「よーく煮込んであったりしたら特に好き!!」
男の学生「・・・・」

会話はこれで終わった。
  彼女はどうやらチェ・ゲバラをシチューか何かの食べ物と思い込んでいるらしい。疑問に思っていても、それ以上突っ込まない男子学生。間違ったまま、しばらく過ごすことになるにちがいない女の学生。果たしてそれでいいのだろうか。こういう場合、あのねゲバラっていうのはねぇ・・・、っと全く無関係のこちらから突っ込みを入れることも必要な時代になったのかもしれない。

以前、知り合いに「崎陽軒(キヨウケン)のシュウマイ」のことを「サキヨウケンのシュウマイ」と読む女性がいた。「それはキヨウケンと読むのだよ」と注意してあげるのだが、聞く耳を持たず、全く治らない。何度言っても治らないので、そのうち注意をするこちらの方がバカを見る感じになって、そのまま放置。それから十数年、彼女はずーっと「サキヨウケン」と読み続けてきてしまった。

しかし、つい最近のことだ、彼女が「キヨウケン」と言っているのを耳にした。な、なんだ!どうしたのだ!何があったか知らないが、きっとどこかで大恥をかいたか、それとも好きな人にでもこっぴどく注意させられたかしらないが、まぁ、どんな理由にせよ、彼女はやっとのことで「キヨウケンのシュウマイ」と読めるようになった。

それはそれでいいことなのだけれど、彼女、もう随分前から「キヨウケン」と読むのを知っていたような雰囲気でその言葉を口にするから驚く。これはサキヨウケンと読まずにキヨウケンと読むのよ、あなたは知らなかったでしょ、サキヨウケンと書いてキヨウケンと読むなんて・・・さっ、一緒に言いましょう、キ・ヨ・ウ・ケ・ン・・・そうとでも言いたげなニュアンスがそこにあるのだ。
  うーん、なんと図々しいことだろう。気の弱い中年としては、こういった女性の図々しさには閉口してしまう。まぁ、こちらとしてはなんだか納得がいかないままだが、十数年経って彼女は「キヨウケン」という正解の読みを手に入れたとさ。

話をゲバラに戻す。ゲバラについて、知っているかどうかこれまた息子に聞いてみた。
「知ってるよ。キューバの革命家でしょ」
  ああ、よかった、「下腹」とでも勘違いしていたらどうしようかと思った。続けて聞いてみた。
「三島由紀夫は知ってる?」
「知ってるよ、割腹した文学者でしょ」
「当たり!じゃあ、どこで死んだか知ってる?」
「知ってるよ」
「どこ?」
「飲み屋!!」

うーん、三島が聞いたら泣くだろうなぁ・・・と中年親父は淋しくなった。
  読み間違いでもう一つ。知り合いの女優さんが、日本の昔の監督の中で好きな監督をあげて欲しい、というので成瀬巳喜男、黒澤明、神代辰巳の三人を薦めた。その女優さんはそれをメモ書きして近所のTSUTAYAに走った。しばらくして携帯が鳴った。
「成瀬、黒澤はありましたが、神代はありませんでした」
「そんなことはないだろう、フランスでも有名な名監督だよ」
「いえ、お店の人にメモ用紙を見せてパソコンで調べて貰ったから確かです」
と言う。

うーん、神代さんの作品はもうレンタルショップには無いのか・・・と時代の移り変わりを感じたのだけれど、後日TSUTAYAに行ってみたら、神代作品がちゃんとあるではないか。
  うん?どういうこと?とDVDを手に取り、中に貼ってあるお店の作品管理シールを見て納得。そこにはカタカナ表記で、神代を「クマシロ」と書かずに「カミシロ」と書かれていた。
  クマシロ監督のことはカミシロ監督と言わないとここでは通用しないらしい。もう残念で仕方がない。映画関係のお店を開いているのなら神代辰巳の読み方ぐらい知っていて欲しいと思う。

これはお店の間違いだけれど、逆もある。これまた知り合いの女優さんにクリント・イーストウッド作品を観たいのでいくつか教えて欲しい、と言われた時のこと。幾つか作品を紹介してあげて、その中に彼が一躍有名になった「夕陽のガンマン」も入れておいた。しかしこの「夕陽のガンマン」がまたまたTSUTAYAに無いという。
「そんなことはないだろう、イーストウッドの代表作だぜ」
「いいえ、本当にありません。ちゃんと調べて貰いました、夕陽のマンガン」
「んっ?いまなんて言った?」
「夕陽のマンガン」
「バカ!ガンマンだよガンマン!マンガンは二酸化マンガンだろ!!」

「クマシロ」を「カミシロ」と読むお店、「ガンマン」を「マンガン」と言う顧客。どっちもどっちだ。ああ、映画がどんどん駄目になっていく気がする。
  年々、時代を築いてきた人たちが亡くなり、その作品も人も生き方も、人々の頭の中から薄れてゆく。好きな表現者が亡くなり、いくら悲しんだところで、その人はもう還ってこない。忌野清志郎氏が亡くなったとき、周りでその死を人生においての大きな悲しみとして捉える人が少なくなかった。その現象にちょっとびっくりしたと同時にとても羨ましく思った。

もちろん忌野清志郎は偉大なアーティストだし、僕自身も多少は影響を受けた人物ではある。でも、人はいつか死んでしまうものだし、彼の死がこちらの日常を狂わすほどの影響は受けてはいない。そう、僕には、その人の死によって、しばらくの間こちらが立てなくなるぐらいダメージになる人がいない。それだけリスペクトできる人がいないのだ。言い換えれば、大きく影響を受けた人物がこの世にはすでにいないと言うことになる。そう、大きく影響を受けた人間はすでに鬼籍に入っているのだ。それに作品に嵌り込むことはあっても、それを作った人間にどっぷり嵌り込むことがあまりないことも関係しているかもしれない。

いや違うな。それを作った人間の意識の在り方には興味があり、そこに関してはとことん追求はする、しかし、作ったときの意識の在り方は、犯罪者の動機を探るようなものだから、今現在の表現者の在り方にはそんなに興味がないと言った方が正しいのかもしれない。
  簡単に言うと、作品を作っている時の人間に興味はあるけれど、それ以外での時間で何をどうしていようと(たとえ死んでしまおうと)、あまり興味がない。あと、もう一つは、基本的に「死」というものはいつか突然やって来るもので、それはけっして人間には決められないことと、どこかで腹をくくっているからだと思う。

表現者ではないが、先日も高校の同級生がひとり亡くなった。奥方も同級生だった。彼ら夫婦とは高校時分一緒に遊んだこともあるし、わりと親しい時期もあったと思う。最後に会ったのは、たしか二十数年前。子供も何人かいたと記憶している。突然の死の報告に、ああ、さぞや無念だったろうなぁ、とは思うけれど、長い年月が、悲しみさえもぼんやりとしたものに変えてしまい、なんだか随分遠い出来事のように心が感じてしまっている。

田舎を離れて早30年。田舎や同級生に対する愛情が自分の中であきらかに薄れている。毎年送られてくる同窓会の便り、封を切ることなく、そのままゴミ箱に捨てる。一度も顔すら出したことのない同窓会。ものすごく楽しかった高校時代なのに、同窓会とか母校に対する愛は全くと言っていいほどない。仲のいいヤツとは年に一度は会っているし、どうしても会いたいヤツがいれば、こちらから連絡するぐらいの気持ちはいつでもある。でもそれだけ。きっと心の中に、郷愁というか、故郷を思う気持ちがまったくはないのだと思う。

自分自身、過去にさかのぼって物事を考えることはよくあることだし、過去のことはものすごくよく覚えている、しかし、そこに執着することもなければ、振り回されることもない。昔通った母校や友だちにあっても心を揺さぶられることはなく、懐かしさを感じることも、久しぶりに会えて良かったとも思わないだろう。きっと、ああ、あいつはつまらなくなったとか、田舎にいるからどんどん世界の狭い人間になっていくとか、悪い印象ばかりが頭の中を巡ることになるに違いない。わざわざ高いお金を払って不愉快な思いをしに行くことはないのだ。誰かが調べて送ってくれる同窓会の通知。これからも、いっさい封を切ることもなく、ゴミ箱の中に消えることだろう。

っと、ここまで書いたところで、以前お世話になった俳優さんが亡くなったと連絡が入った。今年もまたよく人が死ぬ。歳をとるとはこういうことなのかもしれない。今回はこの辺で。



2009.7.29 掲載

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