ロゼッタストーン コミュニケーションをテーマにした総合出版社 サイトマップ ロゼッタストーンとは
ロゼッタストーンWEB連載
出版物の案内
会社案内

第140回  長女の結婚

今年の5月、長女が結婚をする。
 「長女が結婚するんだよ」
  そう知人に言うと、みんな同じように「おめでとう」と言う。
  こちらとしては何がおめでたいのだかわからないのだが、たいていの人は必ずといっていいほど、こういった決まり文句を返す。しかしこちらとしては、どうもこういった決まり文句という奴に馴染めない。

もちろん、親からも周りからも反対をされ、苦難の道を乗り越えた上での結婚なら、「いろいろあって、ここまで来るのに長かったけれど、とりあえずおめでとう」ということにはなると思う。
  しかし、結婚にいたるまでの道のりが、あまり険しいものではなかったカップルにおいては「おめでとう」はあまりふさわしくない気がする。
  それこそ、「スムーズにいきすぎる結婚は、後が大変だから頑張って!」とか「これから長くてシンドイ旅が始まるけど、しっかりやれよ!」といったことの方が似合う気がするのだけれど、そういう発言をするとあまりいい顔はされない。きっと、その結婚にケチを付けているように見えるからだろう。

自分を殺し、無難に「おめでとう」と言っておいた方が世間は丸く収まる。こういう習慣は非常にくだらないので、早くなくならないかと思うのだけれど、なくなる気配はまったくない。

結婚式もそうだ。招待状が届き、「欠席」に○を付けて返信をすると、受け取った方は決まって、「なんで?」ということになる。

先日も長女から人前結婚式の案内状が来た。今まで縁のあった人達の前で、結婚式を挙げ、ついでに披露宴もするらしい。
  贅沢なことは一切することなく、会場も自分たちが暮らすことになる田舎の広場。食べ物はすべて手作りのアットホームなもので、会費も3500円と素敵。質素な二人らしく、それはそれは愛らしい催しを考えたものだと親としてとても嬉しく思った。たくさんの方に来て頂いて祝って貰えれば、二人も喜ぶに違いない、めでたしめでたし、と思ったのだが、そうはいかなかった。原因はワタシ。

こういった結婚式は本当に素敵だとは思うのだけれど、「結婚式」というイベントに参加したくない、もっというと、それが自分の娘のそれとなると尚更行きたくないのだ。もちろん娘の結婚に反対だとか、嫁に出すのが寂しいとか、前の妻に会うのが嫌だとか、そんな理由ではない。理由を簡単に説明するとこういうことだ。

まず一つ目。

元来のイベント嫌いに加え、娘の結婚式になんか出たら、まず泣く。それは嬉し泣きとか寂し泣きとかではなくて、どちらかというと悔し泣き。それも娘を他人に取られる悔しさではなくて、これまでに自分はこの子に対して何一つしてあげられなかった、という悔しさから来るもので、すまない、ごめん、許してくれ、これらの言葉が自分の中を駆けめぐり、涙が一粒でもこぼれようものなら、もう自己コントロールが利かなくなることは必死、体中の水分が枯れるまで泣き続けるだろう。

そのためには泣かないようにしなければならない。泣かないようにするには人と口をきかないようにするしかない。いったん口をひらくと、その間からも涙がこぼれてしまうからだ。そうすると会場にはひとりだけ、口もきかずにブスッと坐っている親父がいることになる。これは式を楽しんでいる人達にとっては、はなはだ迷惑だ。
  自分は、よく打ち上げなんかでブスッとした人を見かけると、そんなに嫌なら来なければいいのにと思う方なのだ。だから、不機嫌な顔でそこに居ることになるのなら、最初から行かない方がいいと思ってしまうのだ。

二つ目。

僕のような人間には、ハレの席がもっとも似合わない。人には元来、ハレの似合う人間と似合わない人間がいると思っている。僕に似合わない三大事をあげるとすれば、祭り、結婚式、サーフィン、となる。

まぁ、サーフィンがハレかどうかは知らないが、それについてはまた後日。噺を戻そう。結局、ハレの席には、自分は行かない方がいいと思っている。自分のような悲観的な人間がそのような席に行くと、なにか決まってマイナスの出来事が起こるに違いない。たとえ思いこみであっても、もし本当にそんな出来事が起きたら、娘に対しても相手方に対しても申し訳がないではないか。

三つ目。

娘の結婚式ぐらい自分の生き方を示したい。僕の中には儀式を優先する生き方を是とする心情はないのです。

それなのに、長女は電話でこういう、
 「お父さん、本当に来ないつもりなの?」
  こっちは必死に返す。
 「別に祝っていないわけでもないし、君たちの結婚を反対しているわけでもない。また父は儀式を優先する生き方を是とはしないが、それを是とする人の気持ちも分かる。だから、そういう人達に来てもらって祝ってもらえばいいじゃないか」

そう説明するのだが、本人は納得していないらしい。それに加え、次女や長男までもが攻撃をしかけてくる。目を合わせるたびに、出てあげればいいじゃないか、シネマ(長女の名前)が悲しんでるよ・・・、きっと泣いてるよ・・・、ひどい親父だ・・・、どこまで頑固なんだ・・・etc.もうしつこくて仕方がない。こうなったら持久戦である。子供たちが諦めるか、僕が折れるか。

でも、たとえ折れたとしても、式の間中、仏頂面した親父が嫌な空気を撒き散らしながらその場所に居座ることになるのだが、果たして当人たちはそれでも嬉しいものなのだろうか・・・こちらはみんなのためを思って参加しないのに、みんなは参加しないこちらを責める。どこまでいっても平行線。自分の娘の結婚式ぐらい自由にさせて欲しいと思うのは我が儘なのだろうか・・・。

もちろん、出席しないことで相手方に多大な迷惑をかけることになるのなら、頑張って出席しようとは思う。でもそんなことないのだから、遠くから思いを馳せるだけではどうして駄目なのだろうか・・・。

と、ここまで書いたのが3月の下旬。
  その後、実は右腕が使えなくなった。
  ある朝起きたら、首から右腕にかけて猛烈な激痛が走るのだ。痛いなんてものじゃない。風が吹いただけでも痛い。
  使えない右手を駆使して知り合いの鍼灸師に電話をすると、「すぐに医者に行ってレントゲンを撮って下さい」と言う。「なんでもないといいのですが、ひょっとしたら五十肩かもしれませんね」と言う。「ええっ? 五十肩? 俺はまだ四十代だよ!」そういうと、「じゃあ四十肩でしょう!」と怒られてしまった。

とにかく医者だ。歩いても肩に響くので、ものすごく時間をかけてゆっくり歩いて近所の整骨院まで行く。普段だと10分程度で着くのに、この日は30分以上もかかってしまった。待合室の椅子に座ると、またまた痛みが倍増。しかたがないので、床に横になって順番を待つ。

床に寝そべっていると、普通に暮らしている人々を下から見上げることになる。下から見上げる人々はなぜか自分より偉く見えるから不思議だ。毎日床に座っているホームレスの人達はいつもこんな気持ちで僕たちを見ているのだろうか・・・。

名前を呼ばれ、レントゲンを撮った。頸椎の骨と骨の間が狭くなっていて、神経を圧迫しているらしい。中度の頸椎ヘルニアだ。
 「しばらく安静にして下さい」
  と言われ、飲み薬や湿布薬を処方してもらって家に帰った。

帰り道に気が付いたのだが、どうやら今回の頸椎ヘルニアによって、左指の薬指も三度目のバネ指になってしまったらしい。こちらも痛くてしょうがない。

こうなると両方の手が使えない。携帯、パソコン、読書、散歩、すべて駄目。為す術もなく快復を待つしかない。日が経つにつれて徐々に良くはなってきているけれど、まだまだ痛い。今日は随分と調子が良さそうだったのでパソコンを打ってみたのだけれど、やはり痛い。

仕方がないので、今回はここまで。
  娘の話が中途ですみません。



2009.4.24 掲載

著者プロフィールバックナンバー
上に戻る▲
Copyright(c) ROSETTASTONE.All Rights Reserved.