第139回 春の夢
最近、「不運から風雲」読んでいるという方に会った。「思っていたより随分と明るい方なのですね」、会ってすぐにこう言われた。これを読んでくれている人は、僕がもの凄く暗い人間だと思っている人が多いようで、このようなことはよくある。まぁ、ここでしか知らない人からみれば、僕のような人間は、きっとウジウジと女の腐ったような人間にしか映らないのだろう、実際そうなのかもしれないが・・・。
これと正反対なのが、大学の生徒。彼らは、もちろん、僕がここでこんなものを書いていることなんかほとんど知らない。だから生徒からの印象は、いつも元気でよく笑う悩みの少なそうなヘンなおじさん、ということになる。
で、実はどっちが正解なのかというと、実はどちらでもない。人間には光と闇があるように、僕にも光と闇が半々ある。常日頃、人と接するときはサービス精神が顔を出し努めて明るく振る舞い、いったん表現の場に出ると、闇の部分が大きく顔を出す。しかし最近はあまり表立って表現活動をしていないので、闇の部分の処理に困っている。だから、情緒のバランスが悪い。
まぁ、ある程度は昔からのことだから仕方がないのだけれど、闇の部分のはけ口が少ない分だけ、落ちるときは激しく落ちる。しかし、落ちている時間は以前に比べて短くなった。立ち直りは極めて上手になったみたいだ。若いときは情緒不安定が服を着ているように、泣いたり笑ったりが激しかった。特に春先なんかは最たるもので、チビッコが目の前を横切るだけで涙が止まらなくなったりした。
これはきっと、鬱病気質の母親から引き継いだもので、それを今では次女が引き継いでしまっている。次女はよく泣く。先日も彼氏と喧嘩したと言って、居間の絨毯の上で朝からシクシクと泣いていた。泣きたいときは泣けばいいさ、と言い残し僕は出かけたのだが、夕方になって家に戻り、疲れた身体を絨毯の上に横たえると、水でもこぼしたかのようなグッショリ感がそこに残されていた。いったいどれだけの水分を放出したのだろう。これも若さ故のことだろうか。
中年になると絞り出しても水分はあまり出てこない、そのかわり死にたくなるくらい落ち込んだとしてもオナラはバカスカと出る。「死」と「涙」なら美しい気もするが、「死」と「オナラ」はどう考えても美しくはない、どちらかというと汚い。でも現実にそうなのだから仕方がない。落ち込んでブー、死にたくなってブビビビビーなのだ。バカバカしいったらありゃしない。
次女はあまり洗濯をしない。十日に一度、まとめて洗濯をする。だから一回の洗濯は大量になる。それを物干しにいっぺんに干す。そんなにたくさん干したら乾かないと思うのだが、洗濯物と洗濯物の隙間がないほど干す。三日ぐらいでやっと乾き、さぁ、取り込むのかな、と思ったら、これを取り込まない。
その中からその日着るものだけを外し、それを着て出かけていく。彼女の部屋の物干しは、クローゼット代わりのようだ。それが十日ぐらい続くと、物干しの洗濯物がすっかりなくなり、しかたがなくまた洗濯をする。ものぐさにも程がある。これはきっと彼女の母親に似たに違いない。
次女は普段、下北沢の和食屋で働いている。美味しくて雰囲気がいいのと家から近いこともあって、僕もたまには顔を出す。お店の常連さんは一応に「客の扱いが上手い」と次女を誉める。家では仏頂面か泣き顔ばかりなのに、外では随分と愛想がいいらしい。「本当は僕に似て、悲観的で天の邪鬼なのですよ」と言ってあげるのだが、誰も信用しない。これは完全犯罪だ。外面がよすぎるのにも程がある。少しでいいから家でも愛想よくしてほしいと思うのだが、「外面がいいのは父譲り」と言われてしまう。
どうやら僕は外面がいいらしい。でもそれはちょっと違う、と父は思う。もちろん知り合いにはなるべく嫌われたくないし、せっかく縁があって知り合ったのだから少しでも長くお付き合いをしたいと思っている。だから人とあって話をするときは、なるべく誠実に接するようにしている。それが、外面がいいと言う一言で片づけられると腹が立つ。
人と会うには、もの凄くエネルギーがいる。だから、一日に会う約束をするのは一人と決めている。一日に何人もの人と会うと、知らずと力配分をしているようで、エネルギーが分散され、雑な接し方になってしまう。それが嫌なのだ。予定が重なってしまったときには丁寧に、「その日は人と会うから違う日にして下さい」と断るようにしている。それでも判ってくれる人と、そうでない人がいて、「あぁ、そうかよ」と言われてしまうこともよくある。それはそれで悪いとは思うのだけれど、中途半端に会う方がよっぽど失礼だと思うので頑なにそれは守っている。
その人に対して、よかれと思ってやったことが、嫌われる原因になってしまう。人間関係は難しいものだ。そんな生き方をしていると、「あなたは人が好きなのか嫌いなのかよくわからない」と言われることがある。そんなときは、「目の前にいるその人のことは嫌いではないけれど、自分も含めた人間という生きものは嫌いです」と言うことにしている。どういうことかというと、目の前にいるあなたのことはとても嫌いにはなれないけれど、自分も含めた人間という生きものはみんな頑固で我が儘なので嫌い、ということなのだ。判りづらいかもしれないけれど、そういうことだ。これを言い続けると勘違いをされてしまい、結局は敬遠されることになる。別に何と思われようとこっちは構わないのだけれど、ひどく疲れるのも事実。いくつになっても人は難しい。
話はかわるが、相変わらず世の中の不景気は続いているみたいだけれど、不景気と言うからには景気のいいときがあったに違いない。それだけでも羨ましいと思う。僕なんか生まれたときからずっと不景気で、この先も景気が回復する予定も見込みもない。僕には不景気はあまり関係ないようだ。歳のせいか、何が何でも手に入れたい、と思うものが減ってきた。なんだかあまり欲がなくなってしまったなぁー・・・、と思っていたら久しぶりに夢を見た。宝くじが当たり、親しい人たちに配っているのだ。目が覚めてすぐに、古今亭志ん生の言葉を思いだした。『気前よく 金を遣った 夢を見る』。まだまだ人に好かれたいし、見栄も欲も尽きないようだ。
落語繋がりでもう一つ。演芸評論家、吉川潮「落語の国芸人帖」の中に「シャレに死す」という短編がある。毒舌落語家、小痴楽改め春風亭梅橋の生涯を描いているのだが、最後の死に方が凄い。三日に一度、人工透析を受ける身なのに、二度続けて透析を受けず、死んでしまうのだ。生きるために透析を受けることを選んだにもかかわらず、それを拒み死に急ぐ。これは自殺である。こんな自殺の仕方があるのかと、ちょっとビックリした。しかしそんな手もあったかと手を打つ自分もいた。
そのまま眠りについたら、明け方になってうなされた。どこかで女の人が泣く声がするのだ。うーん恐ろしい。どうしよう、目を開けるのは恐いし、体は金縛り状態。しかし、このままでいるのもつらい。金縛りを解くには体のどこか一部分を思い切って動かすしかない。掌に力を入れ、懸命に指を動かした。金縛りが少し解けた。次にまぶたに力を入れ、思い切って目を開けてみた。クラッとした眼の先に女の顔があった。なんで!!なんで、女がここに!!
よく見ると泣いているのは女優の大塚寧々。なぜに大塚寧々? なぜに? 戸惑いながらも体に力を入れ、思いっきり上体を起こした。その瞬間わかった。テレビを点けたまま寝てしまったのだ。もちろん大塚寧々はブラウン管の中。再放送のドラマの中のワンシーン。そこで彼女が泣いていたのだ。実にバカバカしい。しかし、それにしても恐かった。しばらく大塚寧々のことは好きになれないと思う。
もうちょっとすると桜の季節になる。まだまだ情緒不安の状態は続くことだろう。
2009.3.2 掲載
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