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第134回  もし自分が死んだら…

今年の初めに脳髄膜炎で入院してから10ヶ月が過ぎた。その後、たいした後遺症もなく過ごしているが、ひとつだけ困ったことがある。入院以前に知り合いに貸したはずの本・CD・DVD等の所在がわからないのだ。誰に何を貸したのか頭の中からすっぽり抜けてしまっている。

お金に関しては他人に貸すほどの手持ちがあるわけもないので心配いらないけど、モノに関しての貸し借りをまったく覚えていない。家にあるはずの本やCDがないのは気持ちが悪い。ひょっとしたらあげてしまったのかもしれないが、それさえも思い出せない。

やはり4日間意識不明の状態が、記憶に何らかの影響を与えてしまったのか。まぁ、僕の所蔵物なんてたいしたものは無いはずだから大勢に影響はないけれど、中には現在では入手困難なものもいくつかあるわけで・・・とにかく、なんかこう気持ちがスッキリしない。こういうときはどうすればいいのだろうか。

先日もある本の行方を捜して、何人かにメールで聞いてみた。返ってきた答えはどれも、とっくの昔に返しました、と少々お怒りの返事。やっぱりこういうことは先方に不快感を与えてしまうようだ。したがって、これ以上じかには聞けなくなってしまった。どうしよう。まっ、相手が覚えていてさえくれればそのうち返ってくるだろう。

それにしてもこういった記憶のすっぽ抜けには困った。この先、記憶力については、老いも伴いますます酷くなるに違いない。気の確かな今の内に遺書でも書いておかなくてはと思っていたところ、ある本を思いだした。

城山三郎著「粗にして野だが卑ではない─石田禮助の生涯」。石田禮助(1886-1978)という人物は、三井物産取締役(1933年)、常務取締役(1936年)、代表取締役社長(1939年)、を経て三井物産総責任者となった実業家で、その後、第五代国鉄総裁に就任(1963年)した大人物。その生き方は、粗にして野だが卑ではない、と表現されるように実に豪放磊落。詳しくお知りになりたいお方はこの本を読まれるといい。実に面白い人物評伝に仕上がっている。

この本の中に家族に記した石田禮助の遺言というか、自分が死んだときに家族にやってほしい対応が載っている。ちょっと引用してみよう。

    ● 死亡通知を出す必要はない。
    ● こちらは死んでしまったのに、第一線で働いている人がやってくる必要はない。
      気持ちはもう頂いている。
    ● 物産や国鉄が社葬にしようと言ってくるかも知れぬが、あれは現職ではない。
      彼らの費用を使うなんて、もってのほか。葬式は家族だけで営め。
    ● 香典や花輪は一切断れ。
    ● 祭壇は最高も最低もいやだ。下から二番目ぐらいにせよ。
    ● 坊さんは一人でたくさんだ。
    ● 戒名はなくてもいい。天国で戒名がないからといって差別されることもないだろう。
    ● 葬式が終わったら後、「内々で済ませました」との通知だけ出せ。
    ● ママは世間があるからと言うかも知れぬが、納骨以後も家族だけだ。
    ● 何回忌だからといって、親族を呼ぶな。通知をもらえば。先方は無理をする。
    ● それより、家族だけで寺へ行け。形見分けをするな。つゆが死んでも同じだ。
─── 城山三郎「粗にして野だが卑ではない」より ───

どうだろう、とてもシンプルで素敵な対応だ。にも関わらず、これを実際に行うにはいろいろな問題が生じるのも事実。葬式というものは、家族、仕事関係、友人、親戚等々、実に多くの人の思惑がそこに入り込み、どうしても船頭が多くなってしまう。

いや、正確に言うと、船頭は少なく、口を挟む者が大勢出てくると言った方がいいかもしれない。あらゆる人が無責任に自分の意見を言い、結局事態を混乱に招く。こういったところは実に芝居作りと共通する。そんなことにならないためにも今のうちから大体の構成台本を作っておく必要がある。

そう、人間はいつ死ぬかわからないのだ。実際に今年の初めに死に損なった身としては、いつ死んでもいいように、事前にできることはやっておきたい。僕は石田氏のような大人物ではないけれど、ひとつ石田氏を参考に、こうしてほしい、ああしてほしい、という葬儀についての段取りを書こうと思う。

    ● 三人の子供たち以外は迷惑がかかるから、親戚にも友人にも死亡を知らせないでほしい。
    ● 出来れば遺体はどこかに献体して欲しい。
    ● 葬式は行わないでほしい。
    ● 万が一生き返ると困るので、死んだらそのまま焼き場に持って行き、高温で焼いてほしい。
    ● 香典等は一切もらわないでほしい。
    ● 棺桶はいちばん安いのでいいし、固い段ボールとガムテープで作ってくれてもいい。
    ● 遺影も祭壇も坊さんも御経も戒名も墓もいらない、
      残った骨は細かく砕き、どこかに蒔いてくれればいい。
    ● 誰かに消息を聞かれたら、「あいつは死にました」と世間話のついでに伝えてほしい。
    ● 仏壇などは持たず、法事などの集まりも一切やらないでほしい。
    ● 持ち物は、欲しい人があれば貰って頂き、余ったものはゴミとして捨ててくれればいい。
    ● 自分が生きてきた足跡をできるだけ残さずに、キレイに片づけてくれると嬉しい。

世間的に金も地位も名誉もない自分は、石田氏のよりもっとシンプルになった。要は何もしてくれなくてもいい、ということだ。これでも真剣に書いた。また極力簡単に書いた。それでも残された人間がこれを実行しようとすれば、方々からかなりの文句が出ると思う。葬式なんて、結局は世間体だけなのだ。しかしここに記しておけば、これが証拠になって、少しは話を進めやすいと思うし、本人の希望として残っているので、たとえどこかから文句が出たとしても、本人の希望だからと、ある程度説得力のある言い訳になると思うのだが、どうだろう。

ふつう、人は死後のことを生前に文章化しておくことはあまりやらない。それは、こういうことを書き始めると死期が近づく、という言い伝えがあるせいだ。しかし、僕は自分が死んでしまったあとの処理ぐらい自分の思うままにさせて欲しいと思う人間なのだ。たとえ書いても罰は当たらないだろう。

書いてみて思ったのは、意外に冷静にスラスラと書けるものだということ。そして、書いているうちになんだか気持ちがスッキリしてくるのが不思議だった。死んでしまった「自分」という人間の一生は、とても小さくて空しい。書いているとそれがとてもよくわかり、そのことを素直に受け入れることができる。ふだん生きていると、それを上手に受け入れられないから必死になってもがく。もがくと苦しみは増す、なのに、なおもがく、そのままがんじがらめになり、それをほどくのにまた一苦労をする。

ここで提案。苦しいときにはひとつ、己の死んだ後の処置の仕方を書いてみてはどうだろう。意外に自分を冷静に見つめることができると思うのですが。



2008.11.18 掲載

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