第133回 身体表現の授業
初めて、大学の教壇に立ったのは、5年前、所沢の方にあるS大学。身体表現の授業を前期の半分だけ受け持った。その2年後、いまのM大学の身体表現の授業を前期だけ受け持つことになり、翌年から一年間を前期と後期に分けて、2クラス持つようになった。教壇に立つことに、いいかげん慣れてもいい頃なのに、いまだ慣れないでいる。
新しいクラスの授業は、いつも緊張する。もちろん生徒も緊張している。というより、生徒の方が凄く緊張している。和ませようとして冗談を言ってみたりしても生徒の方は凍りつくばかりで、大体が空振りに終わる。それでも3回目の授業あたりから自分のペースで進めることができるようにはなる。だけど、生徒の方はと言うと、5,6回は過ぎないと笑顔がこぼれることはない。こちらが自分たちにとって敵か味方か見分けるまでに、それぐらいの時間が必要なのだろう。悲しいかな、今の子供たちはとても臆病で用心深いのだ。
身体表現と言っても、やることは演劇表現。生徒に脚本を読んで貰い、5人編成のチームをいくつか作り、10ページ前後の台詞を覚え、演じてもらう。それがそのままテストになる。台詞の暗記と大きな声で演じてくれれば単位はあげることにしている。しかし、基本的に出席には厳しい。これは休んでしまうとチームでの練習ができなくなるのに加え、ひとりひとりに責任感を持たせたい理由から。
それなのに、休む生徒がいる。休みが多いと単位をあげられないと、最初に言っておいたにもかかわらず、休む。だから、単位をあげられません、というと文句を言い始める。文句を言う前にまずチームメイトに謝りなさい、とこちらは言うのだが、これもしない。大学生なのに、「ごめんなさい」の一言が言えない。言えないなら単位を諦めればいいのに、単位だけは何が何でも欲しいようで、自分の弱い立場を力説する。いくら力説しても非は本人にあるわけだから、ただの我が儘にしか聞こえない。もっと面白い言い訳でも考えてくれればいいのに、要は個人的な問題ばかりで、親や教師の悪口ばかり並べてばかりで拉致があかない。親に文句があるなら独り立ちしなさい、教師に文句があるならもっと闘いなさい、そう言い返すと途端に黙ってしまう。結局、こういう子には、よく考えて来年また来なさい、と言うことにしている。
そんなわけで、最初は20人ぐらいいた生徒が最終的には12〜15人ぐらいにまで減る。
演劇を教えると言ったってそんな高度なこと要求していない。役を通じて人と接し、会話をして欲しい、とだけいつも言っている。これが出来る子どもと出来ない子どもの差が激しい。
出来ない子どもの言い分を聞いてみると、大抵の場合、他者とのコミュニケーションを諦めているケースが多い。その原因がイジメであったり、家庭内の事情であったり、それは人様々なのだけれど、対人関係を諦めてしまってはこの先がたいへんだ。そう言ってあげるのだが、返ってくる言葉は、その時になったらやります、だ。
なんだろうか、これは。人とのコミュニケーションって、その場になっていきなり出来るほど簡単なものなのだろうか。この先、友達や恋人、はたまた自分の家族を作る気はないのだろうか。今後、他者と共存していくつもりはまったくなく、そこに関しては、自分から歩み寄ることはまったくないということなのだろうか。
自分から自分の可能性を殺してしまっては元も子もないと思う。キッパリと、自分は孤高の人になります、と言い切ってくれればそれはそれで面白いのだけれど、それもない。そもそも他者とのコミュニケーションを諦めているのなら、身体表現の授業に来ることも無かろうにと思うのだが・・・。
先生に、期待はしていない、でも、どこかで自分のことは気にして欲しいし理解をして貰いたい。そして、できればこんな僕を先生の力でどうにかして欲しい、それも面倒なことは抜きで、そう思っているこの依存体質の「甘え」の構造が、新米講師によくわからない。だから、新米講師は声を荒げ、もっと会話をしろ、もっと他者のことを考えろ、もっと自由になれ、と言い続ける。
だいたいの授業が、こういった甘えた子供たちに時間を取られてしまう。割を食うのはデキル子供たち。デキル子供たちには、もっと先の演劇表現を教えてあげたいのだけれど、自分がデキの悪い子どもだったせいか、デキの悪い子どもたちを捨てておけない。
知り合いの演劇関係者が同じように大学の講師をはじめて鬱になったという噂を聞いた。無理もないと思う。
演劇においては、駄目な俳優でも、使うと決まったからにはそれなりの形にして板の上に上げなければならない。それが演出家の使命であり、仕事なのだ。そういう習性がついているので、大学の授業でも、ついそれをしてしまう。そこに落とし穴がある。彼らは大学の生徒であり、俳優ではない、責任感という点に置いてかなりの開きがある。学生には単位修得という目的しかないのだ。
もちろん、デキル子どもに対しては、俳優さんに接するように一人前に扱ってあげた方が伸びる。そういう子には、最初から責任感と向上心が備わっているからで、それでは他の子供たちはどうするか。手を抜いて、楽しいゲームばかりの授業をするのか。それは違うと思う。それでは何も教えることはできないし、僕がやる必要もない。マニュアルさえ作れば、誰がやってもできるし、生徒にとって楽な授業にしかならない。その上、簡単に単位が取れるため、学校中の有象無象が集まり、収拾のつかないクラスになるに決まっている。
結局、個人差を抱えながら、ひとりひとりの成長をつぶさに見ていくしかない。ひとりひとりの特徴を時には否定し、時には肯定して、表現の上では長所と短所は逆にもなりえることを伝えていくしかない。生徒個人個人を自分なりに考え続けてあげること、生徒の性格や成長を、メモを片手に頭にたたき込み授業に向かう。これはこれで結構重労働だけれど、コツコツやっていくしか今は方法が浮かばない。
演劇の授業では、生徒に自分なりの意見を伝え、それを汲み取って演じてもらっている。生徒には、意見されて喜ぶ生徒と反発する生徒がいる。喜ぶ生徒は自分がある程度見えている生徒で、欠点を指摘すると、すぐに修正してくれる。逆に反発する生徒は、言われたことに対して、自分を否定されたと思いこみ、素直に受け取ることを拒絶し、まったく変えようとしない。
もっと自分を客観的に見なさい、と言うのだけれど反発だけが先に立ち、にっちもさっちもいかない。こういう場合は、しばらく放っておくことにしている。最後まで残る生徒は、そのうちに気がつくからだ。しかし、意見されたことに腹を立てて、来なくなる生徒もいるわけで、ここらのさじ加減は本当に難しいと思う。
それでも、昨年教えた生徒と校内でバッタリあったりすると笑顔で、「先生の授業を受けた生徒とは校内であってもお互い挨拶をするのですよ」と言われると、とても嬉しい気持ちになる。そのときだけは、大学の講師をやって本当に良かった、と素直に思える。
毎週通っている大学のキャンパスにはあまり活気というものがない。同じキャンバスにいながら、お互いが無関心を装っている。笑いも奇声も嬌声もまったく聞こえない。たまにふざけ合っている一団に遭遇し、その中に自分の教えた生徒がいるとホッとする。
学生たちよ、もっと弾けろ、もっと騒げ、もっと暴れろ。
個人ではなく、みんなと共に何かを共有し、そこから何かを創ってくれ。
若いうちにしか創れない何かを。
明日も授業に行く。さて、明日は何人欠席してくれるのだろうか。楽しみである。
2008.11.1 掲載
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