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第129回  人生の雷雨

昨年の九月に芝居の公演が終わり、次に予定していた芝居が中止になり、目標を失ったまま一年が過ぎた。たかが芝居と思っていたけれど、その芝居作りを失った瞬間から、いきなり盲人になったかのように何も見えなくなり、一年というかなり長い期間、鬱々とした状態で過ごしてしまった。

ピークは夏真っ盛りの先月。明日在るべき自分の姿が想像できなくなり、自分の存在意味がわからなくなってしまった。これには久しぶりに参った。暑さにフゥ?、鬱にヒィ?。五十歳に近い男が、目標を見失い右往左往している姿は、どう考えてもみっともない。

狂ったような暑さの日、病気による貧血にクラクラしていると、突然、伸びきった庭の雑草にイライラしてきた。よーし、全部抜いてやる、そう意気込んでの庭掃除。伸びに伸びた庭の木と大格闘。気がつくと45Lのゴミ袋が七つ。それを庭からゴミ置き場近くまで運んでいる途中、突然、頭の中で何かが壊れた。

──奴は人生に多くを求め過ぎ、自分の器を実際より大きく見誤り、その器に収まる筈もないものを求めすぎる──(三羽省吾「厭世フレーバー」より)

人間という生きものは、つねに自分だけは、自分こそは、と思い込み、努力を怠り、ついつい楽な道を選んでしまう。そのツケがある日、津波のようにドッと押し寄せてくる。その勢いに押し切られ、気がついたら鬱の扉の中に追いやられていたのはいつの日か。ゴミ袋を掴んでいた右手の握力がヌルっと緩み、ゴミ袋はペシャンと地面に落ちた。その右手を頭の上に持って行き、薄くなった頭のてっぺんに手を重ねた。オレは河童だ・・・、そんな言葉が口を衝く。

ぼんやりしながらも自分がやばいことを察し、風呂に湯を張り、あわてて飛び込む。暑い日に入る熱い風呂。汗は滝のように流れるけれど、身体は冷たい。あまりにもバランスが悪い身体の状態。それでも、風呂に入ることで、ゆっくりだけど身体の中の血液が温まっていくのがわかる。安定剤のような薬を飲めない(飲まない)体質なので、安定剤代わりになるモノと云えば、映画に本に音楽、そして散歩と風呂。作家の南木佳士氏は、自分の作品の中で、次のように述べている。

──そうだな。風呂に入って体があったまると、そのときだけは寂しくねえもんな。風呂は精神安定剤みたいなもんなのかも知れないな。即効性がある代わりに冷めるのも早いけどな──(南木佳士「海へ」より)

病気が発覚してから、少なくとも朝晩、二回は必ず湯船につかるようにしている。ひとつは新陳代謝を促すためと、あとひとつは、死ぬつもりがないのに、死にたいと思ってしまう自分の心が、この時だけは休憩していてくれるから。暖かい湯船につかりながら、死に思いを馳せる人間っていうのはあまり聞いたことがない。南木氏が云うように、冷めるのが早いのであれば、長め入るか、出たり入ったりを繰り返し、頻繁に入ればいい。

あっ、そういえば、よく浴槽で手首を切る人がいるなぁ・・・。あれはきっと、既に死ぬ覚悟を決めてから浴槽に足を入れるからそうなるのであって、もっと前の段階、死のうかどうしようか迷っている段階で風呂に入れば、湯船につかって汗をかいた瞬間にその思いは、自分から少し離れたところに移動している気がするのだけれど、どうだろう。まぁ、個人差があるとは思うけれど、僕にとっての風呂の精神安定効果は、なかなかのもので、それに関しては本当に日本人で良かったと思っている。

南木佳士氏の作品は、僕のような人間でも頷ける箇所が多く、大体は目を通している。著作の中でも云っているように、彼は長い期間、鬱病を患っているらしい。だからだろうか、鬱体質のこの身体に、彼の言葉はじんわりと沁みてくる。

──自分の症状が分類可能な病気に由来すると知ったとき、患者は台風の目に入ったように、ほんのわずかな間ではあるが青空が見えるものなのだ──(南木佳士「海へ」より)

大学の頃より39歳までの約二十年の間、暴力的な身体の怠さに悩んでいた。それがC型肝炎と橋本病によるものだとわかったとき、ものすごく嬉しかったことを覚えている。原因不明の怠さに生涯悩まされるよりも、ハッキリとした病名がついてくれたおかげで、対処法が明解になり、立ち向かう相手の居場所や姿がなんとなくわかる。

相手のことをわからないよりも、わかった方が勝負はしやすい。それに、なんと云っても目標ができる。とりあえずの明日のためのその一を自分で考え、設定することができる。これは大きく違う。目標や目的がハッキリすれば、人間は努力をしようという気になる。

しかし、だからと云って、すぐに身体の怠さがとれるわけではない。怠さと上手に付き合う方法をこれから自分で探すという目標ができただけだ。これは長い旅の始まりで、根本的にこの病たちは一生治らない。そう、青空は実にわずかだった。だから、そのうちにまた曇の日々が始まり、ときには大雨にもなったりする。

で、今は雷雨。でも、自らの命を絶つわけにはいかない。だから、なんとか凌ぐしかない。自分の心に多くの自虐的な言葉を投げつけながら、逃げ道を探す。しかし、逃げ道はとっくの昔に塞がれていて、すぐに行き止まりになってしまう。何度同じことを繰り返せば気が済むのだろうか・・・。たぶん死ぬまで繰り返すに違いない。それでもいい。繰り返すことを恐れていても仕方がない。そんなとき、次の言葉に目が止まった。

──「強くなくてもいいから、なにがあっても生きてゆきなさいよ」──(南木佳士「海へ」より)

そうだ。生きていよう。せめて明日は生きていたい。だから、明日起きて、運良く生きていたら、明日は生きようと思う。そう自分に言い聞かせなければならないほど病んでしまっているのだから。それにしてもおかしい。生きる気がないことはない。自分自身のことがものすごく嫌なわけでもない。ましてや他人を怨むこともほとんどない。死ぬつもりがないのに、死の思いが身体を駆けめぐり、身体が怠くて、怠くて、足が前に進まないのだ。

この症状が出ないのは、芝居を作っているときだけ。でも、これは芝居製作の短期間限定だから頑張れるだけで、芝居が終わったらたちまち症状は復活。前よりも重い状態になっていることの方が多い。それでも、芝居が作りたいのは、鬱の苦しみから少しでも逃れたいからだろうか。

48歳にして、こんなに戸惑うとは思わなかった。苦しい。それでも何かを変えようと、明日から友人と旅に出る。旅といっても二泊三日。それだって、出不精の自分にとってはなかなかないこと。ましてや、友人との二人旅は生まれて初めてかも知れない。さて、中年男の二人旅、どうなりますか。

旅から帰ったら、また大学が始まる。そういえば、授業中に限って鬱の症状は出ない。子供たちの成長にだけ、力を集中することができる。それでも、集中して踏ん張れるのは、90分という時間限定。どうやら、表現に関わることをしている間は、集中力が高まり、鬱から逃げることができる。鬱から逃げるために表現に生きるのか、表現に関わっているから鬱になるのか。どちらだろうか。

きっと、そんなものどっちでも構わなくて、結局は安心という心が欲しいのだと思う。そんなもの、この世にないことはわかってはいるのに・・・。
それにしても、こんな時期は文章もうろうろしている感じがするからおかしい。文章はそのときの書き手の状態がそのまま出てしまう。

──「〜文章ってねぇ、どうしてもかくありたい自分を書いてしまうんだよ。かくある自分ってのはあまりにもグロテスクでとても言葉になんかできないからね」──(南木佳士「海へ」より)

最近、更新が遅くなってすみません。
  いろいろ闘ってはいますがなかなか・・・。
  ここにお詫び申し上げます。



2008.9.10 掲載

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