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第115回  なぜ生きる?

自分はこれまでの人生において、何か人のために役に立ったことがあるだろうか、と考えることがある。自分は多くの人に支えられこれまで生きてきた。そしてこれからも誰かに支えられて生きていくのだと思う。人は他人の支えがないと生きていけない。でもそれだけではイヤだ、自分のような人間もどこかの誰かの役に立ちたい、誰かのために生きていたい、そんな浅ましい思いも一方で強くある。

甘ったれでどうしようもない自分のような人間が人の支えになりたいなんて笑ってしまうのだが、そう思ってしまう気持ちが湧いてくるのだから仕方がない。だったら人のために尽くせばいい。人のために我が身を投げ出し、全精力を注ぎ込めばいい。・・・でも誰に?・・・。

自分にとって、人生の全てを賭けてもいいと思える人物がいるのだろうか・・・。必死になって探してみるが見あたらない。自分よりも可愛い他人なんてこの世に居るわけがない。みんな自分が好きで、自分が可愛いのだ。ならどうする。自分を愛することだけで人生を全うするのか。それもなんだか気持ちが悪い。やっぱり今まで通り、そんな事を抱えながらもウジウジとできる限り他者を思いつつ自分を可愛がる、そうやって生きていくしかない。もっとこう飄々と世の中を生きていきたいのだが、現実というものはそんなに格好良くできていないみたいだ。

寒くなってくると、午後3時くらいからグッと気圧が変わる。この気圧の変化が身体に辛い。なにかに圧縮されているような感じが、身も心も窮屈にする。パソコンでファイルを圧縮するときのファイルの気持ちが少しだけわかる気がしてくる。ギュッと圧迫され、身体に余裕がなくなる。立っているのがやっとだ。できれば横になりたいが、外出中はそうもいかない。どこか座る場所を見つけて、腰を下ろす。

このとき襲ってくるのが「死にたい」という思い。それは20代のころ思ったような強いものではなく、あくまでもぼんやりとしている。これはすぐに過ぎ去ってしまうときもあれば、三日ぐらい居座ることもある。

この漠然とした「死にたい」という思いと付き合い始めてからもう随分になるけれど、これがなかなか慣れない。何日も潜伏するときは本を読んだり、DVDを見たり、音楽を聴いたりして気を紛らわせる。そして、その表現者たちの生き方を思う。彼らは、この作品を作るためにどれだけの「死にたい」を通過したのだろうか、どれだけの「死にたい」と対峙してきたのだろうか。その人たちの苦しみから比べれば、自分の苦しみなんかとても小さくみすぼらしい。まだまだこれからだな。他者との比較により、少しだけ元気を取り戻す。

スポーツとか芸術に携わっている人間が、試合や制作に集中している姿はとても美しい。一瞬に賭ける美しさには「生」がある。でもその反対に「死」も垣間見える。生きると言うことは、いつか死ぬと言うこと。「必死」というのは「必ず死ぬこと」だと車谷長吉さんは言う。人生は儚い。寿命を削ってまでも賭ける一瞬の集中力。そこは生きる儚さが肯定される瞬間でもある。そこが好きだ。

勝者でも敗者でも、人並み外れた集中力に出会うと血が騒いで仕方がない。全力を尽くした後の勝者の瞳には、様々な壁を越えた喜びがあり、敗者の瞳には、何がそうさせたのかという戸惑いと言いしれない悔しさが宿る。世界のトップに立つために努力してきたことが一瞬で無に帰す瞬間、敗者の魂は喩えようもなく美しく見える。そこには挫折だけではない僅かな希望がある。敗者には次がある。次こそはと思える気持ちがある。たとえ試合に負けて引退に追いやられても、人生に負けなければいい。いや、そもそも人生の勝ち負けはない。あるのは生と死だけだ。

スポーツほどはっきりとはしないけど、役者が稽古場で見せる集中力も好きだ。余分な欲を捨てて、役に自分の魂が入り込んだ瞬間、表現という虚構の中で役者が生き生きと輝き始める。そして千秋楽が終わると瞬く間に敗者のようにグッタリとし、明日からやってくる日常という現実にぼんやりと不安を感じる。目的を達成した思いと、目的を失った思いが同時に交錯する。その姿を見るのが好きだ。もちろん演出する僕自身も同じ思いを抱く。そんな感じが好きで演出をしてきたのかもしれない。

僕は普段から「人が嫌い」と言い続けている。これは別に自分以外の他者が嫌いなわけではない。自分も含め人間という生き物がイヤなのだと思う。もっとわかりやすく言うと、人間の持つ欲望がイヤなのだ。
  もちろん自分にも欲望はある。この欲望というやつが一人歩きをすると、人を責め、人を陥れ、そのうち人を殺す。世の中、人間同士の争いは絶えない。戦争も人の欲望のなせるわざだと思う。

世の中のこと全てをジャッジするのは良くも悪くも人間。この人間の下すジャッジには絶対的な正解というものはない。この世から人間がいなくなれば、人間同士の争いはなくなる。人が人を殺すことはなく、人が自分自身を殺すこともなくなる。

世の中が消えてなくなればいいのに、と幼い頃よく思った。いまでもたまに思ったりもする。でも、今僕はこの世の中に生きているのだし、これからも寿命が来るまで生きていたいと思っている。自分ができること、自分がしたいこと、どう有りたくて、どう生きたいのか。まるで、高校生の頃のような悩みをいま新たに考えてみる。いまここでできることは何なのか、明日からできることは何なのか、そんなことを考えながら、荒くなった息を整えている。

今は大学の講師をしている関係で若者達と接する機会が多い。みんなお喋りはよくするのに、自分のことをあまり語りたがらない。というより、自分を語るという術を知らないのかもしれない。まずこちらから自らのことを語ってあげて、己のことを語ることは恐くも恥ずかしくもないことをおしえてあげよう。とにかく会話。おざなりなその場限りのものではなく、ゆっくりと膝をつき合わせた会話をゆっくりと・・・。

会話はいい、人が人でいられる気がする。表現を通さないと人と会話ができない、と以前書いたことがある。これからは表現を通さなくても人と会話をしていかなくてはいけないと思う。さあて、頑張らないと。年の瀬はどうも暗くなって仕方がない。

2007.12.16 掲載

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