第98回 暴力のような衝撃
演劇を「見る」ことと、「作る」ことについてもう少し話をしよう。
まずは「見る」こと。
僕が初めて演劇を生で見たのは、高校一年の冬。部活の先輩の薦めで、今でいうところの小劇場芝居を見た。
場所は東京の天井桟敷館。そう、寺山修司の主宰する劇団天井桟敷の芝居小屋だった。最初は渋谷にあった小屋なのだが、そのうち麻布十番に引っ越しをした。僕が行ったのは、この麻布十番の方。
同級生数人と地図を片手に、慣れない東京の街を彷徨いながら劇場に到着したのは開演30分前。
まず建物の小ささにビックリ。えっ、こんな小さなところで芝居をするの?見たところ、そこは小さな喫茶店。お客さん数人がコーヒーを飲みながら談笑している。建物も中の空間もほとんどのものが黒。
なんで、こんなに黒? 黒一色のインパクトにしばし圧倒される。
田舎者の僕たちの中には、黒一色の世界がなんとも異様なものに映り、なんとも摩訶不思議な世界に来てしまったという多少の恐怖と、「ああ、なんて世界・・・こんな世界が東京の芝居小屋にはあるんだ」という多大な好奇心を胸にその場所に足を踏み入れた。
喫茶店に入ると、小人の男の人がコーヒーを運んでいた。
ええっ?
極端に小さな人が喫茶店で働いていることに心臓がドキドキした。真っ黒な小さな世界に小人の給仕。本の中でしか知らなかった寺山の世界がいきなり僕の内側に飛び込んできた。それは、ただ道を歩いていただけなのに、いきなり他人から暴力を振るわれたような衝撃だった。
劇場はその喫茶店の奥にあった。
芝居は寺山修司主宰の天井桟敷の芝居ではなく、劇団GAYAという数年後に僕が入ることになる劇団の公演。
キャパシティ50人くらいの狭い空間での生の演劇は、高校生の僕を十分にワクワクさせてくれたけれど、今思うといちばん興奮したのは、やはり「小さな黒い世界の小人の男」だったのではないかと思う。
あの暴力のような衝撃をもう一度、味わいたい。それが、僕の演劇を「見る」ときに求める原点だと思う。
演劇の持つ衝撃にヤラレてしまった僕は、それからいろいろ演劇を見始めた。
しかし、僕の住む名古屋では演劇の公演は数えるほどしかないし、寺山修司や唐十郎などのアングラは滅多にやってこない。
来るのは老舗の新劇ばかり。新劇はつまらない。若かった僕は、新劇の真面目な芝居よりも、もっと破壊力を持ったアングラに興味があった。
おまけに名古屋では演劇情報がまったくと言っていいほど入らない。雑誌「ぴあ」はまだ名古屋では創刊されていなかった。地元では「プレイガイドジャーナル」という薄っぺらな月刊情報誌、そこの小さな演劇欄しかなかったのだ。
だから学校が休みになる夏や冬に、上京しては芝居を見た。東京ボードビルショー、状況劇場、未来劇場、自由劇場、文学座や俳優座、ミスタースリムカンパニーや無名の劇団etc.
小遣いをはたいて、アングラから新劇まで見た。たくさんの表現が僕の頭の中を刺激してくれた。
東京では、毎日のように、どこかで芝居が見られる。毎日が刺激的。よし、高校卒業したら東京に行くべ。
奇跡的に日大の芸術学部に合格し、劇団にも入った。しかし、せっかく東京に来たのに、僕にはお金がなかった。
貧乏学生にとって、芝居の入場料は高い。芝居を見るお金を削らないと生活ができない。
高校時分は自宅なので食費や家賃はいらない。交通費や観劇費も親のスネがあったのでなんとかなった。でも、上京して間もなく両親が死に、生活というものが重くのしかかってきた。
芝居を見に東京に出て来たのに、芝居が自由に見られない。おまけに精神的に落ち込む日々が続き、ますます芝居を見る機会が減っていった。
それでも、天井桟敷、早稲田小劇場、つかこうへい事務所、東京乾電池、黒テント、早稲田小劇場、東京キッドブラザーズ、蜷川幸雄演出作品などなど、月に数本見てはいたが、上京してきた目的の一つ、毎日のように芝居を見たい、という欲求は満たされなかった。
22歳になったとき、僕は就職をした。劇団を辞め、小さな劇団に所属することから開放され、ただ客として「見る」ことができるようになった。
就職をすると、毎月ちゃんと給料が入る。週に数回は演劇を見ることができた。このころの演劇鑑賞がたぶん、僕の中ではいちばん自由な鑑賞方法だったと思う。
自分で稼いだお金で、好きな芝居を自分で選び、好きなときに見る。チョイスの仕方も冴えていた。わりと面白い作品にも出合えた。自分のお金で、情報誌やチラシを見て、わずかな情報を吟味しながら自分が見たい作品を選ぶ。ほんと、純粋に演劇を見られていたと思う。
たしか、小劇場ブームの火付け役とも言われた野田秀樹や鴻上尚史が出てきたのもこのころだろう。ただ、この小劇場ブームの劇団は僕にとっては刺激が弱く、ひねた僕にはただの仲良し集団にしか見えなかった。
24歳で役者の道に入った。
ここからはもう地獄。見に行く芝居は、義理が多くなった。知り合いの役者や演出家、スタッフの関わる芝居を見に行くことばかり。差し入れを持って出掛けていき、面白くもないのに「面白かった・・・」と言っていた。まるで、僕はあなたの芝居を見に来ましたよ、いい子でしょ、と言っているようでとてもイヤだった。見ていても、芝居よりも俳優のテクニックばかり盗もうとしていた。
このころからだろう、演劇鑑賞が苦痛に変わっていったのは。
30歳を過ぎて、自分で演出をするようになった。
芝居を「見る」ことが、面白い俳優&スタッフ捜し、そして演出のテクニックを盗むことになった。終演すると、こまめに役者やスタッフのチェックをし、知り合いに電話をかけ、今度の芝居で使えないかと交渉をした。
これもまた疲れる鑑賞方法だった(笑)。
30歳の終わり、病気で倒れた。
そこから5年くらい、芝居を見に行くことはほとんどなくなった。見に行く体力が病気によって失われてしまったのだから仕方がない。
そして、今現在はどうなったか。
義理で見に行くことは相変わらずだが、そこに新たな見方が加わった。まずは、僕自身、人の成長をそこで見ようとしていること。
たとえば、あの俳優(もしくは演出家&スタッフ)さんは以前はああだったのに、しばらく見ないうちにこう成長したのか、としっかり発見できるようになった。以前なら、そこには必ず同業者としての嫉妬が入っただろう。
また、無名の俳優を見ながら、ここをこうするとこの人は伸びる、というようなことを考えながら見るようにもなった。
この観察眼は、俳優志望の人や素人の役者と一緒にモノヅクリを行っているときに非常に役に立った。ひとりひとりの在り方を分析するようになり、俳優の在り方を自分なりに考えるようになった。だから、普通の演劇公演よりも、新劇などの研究所発表会の方を楽しんで見ている。
最近よく思うのだが、僕にとっては小劇場よりも新劇の方が今は面白い。僕たちが演劇を始めた頃は、新劇はとても古くさく、つまらないものだった。
しかし、25年の歳月の間に、小劇場はテレビ的になり、新劇に演劇的なものを感じるようになった。
ひとつ言えるのは、当時小劇場のスターと呼ばれた人たちはテレビに向かい、当時新劇の異端児と呼ばれていた人たちは、時を経て、後輩の育成に一役買い、新劇の若者達を育てているからだと思う。
時代は変わる。
今や、思想や生き方は小劇場には見られなくなり、新劇の一部に潜んでいる。僕が演劇を見始めたころ、アナーキーな作品を作っていた人たちが、今、新劇の若手を育てている。
昨日もある新劇の研究所の公演を見に行った。作品は、昔よく見に行ったS氏の演出。
隣に座っていた役者らしき中年の男が連れの女性に呟いた。
「あいつらは幸せだ、Sさんの演出が受けられるのだから・・・」
僕も心の中で小さく頷いた。
こうやって、僕の演劇鑑賞は時と共に変わってしまった。いや、演劇そのものも変わったと思う。演劇だけではない、映画もテレビドラマも変わった。表現の中に自分を破壊してくれる何かがどんどん失われていき、僕にとっては物足りなくなってきた。
ただ、どんなに時代が変わろうとも僕が演劇に求めるものは「破壊的な衝動」、それだけは変わらない。
もう一度、原点に帰って芝居を鑑賞したい。
しかし、そのためには純粋な演劇のお客にならないといけないと思う。僕はもう純粋に演劇鑑賞ができないのだろうか?
いや、そんなことはない。そのうちにまた演劇とは無縁の生活をするにちがいない。そのときに、ゆっくりと純粋に演劇を鑑賞することにしよう。
最初に話した「小さな黒い世界の小人の男」には後日談がある。
小さな男は、天井桟敷のHさんと言う俳優さんで、実は僕が35歳くらいの頃、同じ事務所に所属していた。いつか一緒に仕事を、と思っていたのだが、ひと言も会話を交わすことなく、いつのまにか事務所を辞められていた。
当時うちの事務所の社長は、
「うちにはおかしな連中ばかりいるが、中でもヘンなのはHと中島だ」
と言っていたと聞く。
僕はちょっとだけ嬉しかった。
2007.2.28 掲載
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