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第97回 演劇鑑賞嫌いの演劇人


長年演劇に関わっていると、あちらこちらから「芝居を見に来て欲しい」と言われることが多くなった。今月も、かなりの数の芝居のお誘いがある。だけど、見に行こうと思うまでにかなりの時間がかかってしまう。どうしようかなぁ・・・やめようかなぁ・・・行ってあげようかなぁ・・・だけどなぁ・・・つまらなかったどうしようかなぁ・・・。こうやってウジウジ悩んでいるうちに、気がつくと公演はすでに終了。そんなことが少なくない。
  ふだん演劇に携わっているのにもかかわらず、僕は演劇を鑑賞するという行為がとても苦手なのだ。

17歳のときから演劇を見始めて、今年でもう30年。いろいろな演劇を見てきた。ああ、見てよかったなぁ・・・そう思える演劇は、これまでで3本くらい。
  30年で3本。これはかなり少ない。
  基本的に演劇は、見るモノではなく、作るモノ・・・たぶん僕の中ではこうなってしまっているのだと思う。

しかし、映画を見るのは大好きだ。13歳の頃から映画を見始め、今年ではや34年。それこそ1年に3本は、ああ、見て良かったなぁ・・・と思える映画に必ず出会えてきた。
  自分自身、映画に出演したこともある。映画の現場は、演劇の現場と比べ、人間関係がベタベタせず、とても好きだった。

映画監督と演出家。両方の職業の方と仕事をしてきた。
  仕事を通じて、どちらをリスペクトしてきたか・・・それは、ハッキリ言って映画監督。自分自身が面白いと思う映画監督に出会ったことは数多くあるが、面白い演出家に出会ったことはほとんどない(僕が面白いと感じた演出家は、大川興業の大川豊さんくらいかもしれない)。

基本的に、演出家と呼ばれる方の多くは、中高校生時代真面目な演劇少年だった方が多く、ムッツリスケベで、どこか堅い感じがする。しかし人間的にはみんないい人で、仲間意識がとても強く、リーダーシップもある。
  それに比べると、映画監督は不良ばかり。オンナ好きのどうしようもない人たちで、破滅指向が強い孤独な一匹狼。とても偏屈なのだが、それでいてどこかサッパリしている。そんな感じが僕にはピタッとくるのだろう。

そう、僕は根っからの映画派。では、どうして映画を作らないのか?
  別に映画を作りたくないわけではない。長い間ずっと、いつか映画を作りたいと思ってきた。今でも、お金があって、誰かに「作れ!」と言われれば、すぐ作る(笑)。やりたい作品もたくさんある。
  でも、映画は演劇と違って、すぐには作れない。準備期間も含め、少なくとも1年はかかる。その途中で、頓挫する映画も数知れず。それこそ映画作りには魔物がたくさんいるのである。だからこそ、一度そこに足を踏み入れると、その魔力に魅せられ、映画地獄に嵌っていく人が多数いるのだ。

恐るべし、映画作り。だからこそ、映画にロマンを求め、生涯、いつか映画を作りたいと思っている人間がこの世にゴマンといるのだと思う。
  そう、僕もその一人。映画は僕にとって長年の夢。でも、夢というものは、大概が叶わないもの。人生の第一希望が叶う人間は、そうそういない。たぶん、僕もこのまま夢で終わると思う。それでもいい。僕には、映画を作れなくても、映画を見る楽しみがあるし、モノヅクリは演劇でできる。

鑑賞の演劇は嫌いだが、モノヅクリとしての演劇は大好き。この矛盾はどうしようもない。
  よく「演劇を愛しているのですね」と言われることがあるが、これにはいささか困ってしまう。僕が好きなのは、演劇ヅクリであって、演劇鑑賞ではないからだ。誰かに「演劇人」と呼ばれると「やめてくれ!」とついつい言いたくなってしまうのも事実。
  だから普段は、僕は敢えて「演劇」とはあまり言わずに、「表現」とか「モノヅクリ」と言うようにしている。
  これはきっと、「演劇」というものを鑑賞の対象として愛せないからだと思う。

では、なぜ演劇を作るのか?
  僕は元来社会性がないと思う。まず、日常的な普通の会話ができない。僕が人と話をするのは、映画の話、本の話、美術や音楽、たまに芝居の話等々、表現に関する話しかできない(最近ではいろいろな経験がモノを言って、人生観などというこっぱずかしい話をしたりもするが、これは後にひとりになってから赤面することの方が多い)。
  表現なしでは、人と話ができないし、人と関わり合えない。これは人として、かなり欠陥者だ。
  そんな僕が、人と対等(これはこちらが勝手にそう思っているだけかもしれないが)に接することができるのが、今の段階では演劇しかない。

2000年に最後の公演と思って作った芝居「HARVEST」。この公演の後、5年間、モノヅクリから遠ざかっていた。なんども転職を考えた。
  ラブホテルの受付になって、そこに来る客を観察しながら私小説でも書いてみようかなと思い、渋谷のラブホ街まで面接に行ったこともある。
  結果は不採用(笑)。
  どうも、僕は胡散臭い人間に見えるようで、募集の広告がでかでかと張り出してあるのにもかかわらず、ウチはいま間に合っています、と言われてしまった。
  他にも、老人ホームのヘルパーの仕事や、介護の車の運転手の仕事の面接にも行った。
  どれも不採用(笑)。

そんな時、アゴの突き出たF氏という「HARVEST」のプロデューサーから「若手のワークショップをやって、最後に公演をやりませんか」と提案があった。
  5年もブランクがあって、果たして自分がまた演出ができるのか、という戸惑いと、またモノヅクリができるかもしれない、という喜びが同時にやってきた。多少躊躇していた僕に、「まぁ、やってみましょう」とF氏は背中を押してくれた。

2005・2006年の2年間で、彼と3本の作品を創った。
  そして今年の8月、また彼と一緒に作る。演出作品としては、12本目。F氏プロデュース作品としては6本目。すでに、僕の演出作品の半分が彼との共同作業によるものになる。
  映画ではあたり前な、プロデューサーと監督との二人三脚が、こと演劇においてはあまり成立しない。もちろん上手くいっているチームもあるとは思う。だけど少ないはず。これはひとえに、演劇はどんなにヒットしても儲けがあまりないこと、実績にはあまりならないこと、などがあげられると思う。

F氏と僕のチームも毎回大変で、低予算、低賃金の作品づくり。お金の問題というのは実にイヤなもので、お互い(といっても僕の方が一方的な場合が多いのだが)文句を言い合うこともある。
  だけど結局は、終わってみれば楽しい。やってよかった、と毎回思う。その要因を探ると、やはりアゴのF氏との信頼関係の元、いつも彼がそばにいてくれるから、というところに辿り着く。
  制作期間、いつもそばにいて自分を客観的に見つめてくれる。そういう人間がいてくれるだけで、僕はシアワセものだと思う。
  そう、モノヅクリは僕と他者との架け橋なのかもしれない(笑)。

今年の夏もまた、福井県の三國町で、お互いヤイノヤイノ言いながらも、芝居を作る。
  短期集中のモノヅクリ。
  先日、テレビのスポーツニュースで、ロッテ(プロ野球)のジーロング(豪州)キャンプの模様を流していた。試合に大切なのは「集中と反復です」、とロッテの立花トレーナーが言っていた。俳優も同じだ。日頃、どれだけ集中と反復を繰り返しているかで、その俳優の質が決まる。
  ロッテのキャンプ地の周りには娯楽施設などはなにもないと聞く。選手のひとりが呟く、「コンビニが遠いのもいいです・・・野球のことしか考えませんから」。
  僕たちも同じ。また、田舎で朝から晩まで芝居浸けの生活が始まる。低予算の中、どうしたら質の高い作品が作れるのか。それだけを考えて、夏の一ヶ月間地方の港町で生活をする。好きじゃなきゃ、とてもじゃないがやっていられない。

ああ、こんなに演劇を作るのは好きなのに、なぜ鑑賞するのは嫌いなのだろう。野球選手だって、自分の出ない試合だとしても、面白く見ていると聞くし、映画を見るのが嫌いな映画監督はまずいないはず。それなのに、僕と来たら・・・。
  まっ、これくらいの距離があるからこそ、演劇と上手くやっていけるのかもしれない。演劇を見るのも作るのも好きな奴はどうも信用ができない・・・、そう言い訳をしながら、今日も演劇鑑賞をスルーする(笑)。

         

2007.2.16 掲載

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