第96回 何気ない台詞
福井県坂井郡三國町。真冬の裏日本。この「裏日本」という言い方は、俳優の故・宇野重吉さんが言い始めだという。
地元の人たちは、「裏日本」という言い方に嫌悪感を抱きながらも、よく使う。
町の商店のおじさんと言葉を交わす、
「どこから来たのですか?」
「東京です」
「ああ、表からきたのですか」
「表?」
「表日本です」
「ああ、そうです、表からです」
「裏はどうですか?」
という具合だ。
昨年の大雪と比べると、今年の三國は雪がない。
ここに来て十日は過ぎているが、ほんの少し霰(あられ)が降っただけで、ほとんどの日はどんよりとした曇り空。この、胃に負担がかかる様な天候は、以前に行ったイギリスのロンドンを思い出す。自分の中に住む、悪意というモノが胃の壁にべっとりとへばりつく感じだ。しかし、なぜか、僕はこの感じが決して嫌いではない。それはきっと、自分の中の悪意を確認できるからだと思う。暗雲がたれ込めた、黒くて深い海。ここで自分の悪意と向き合う。苦しさを伴うが、自分の悪意をしっかりと認識できて、とてもいい。
その裏日本の小さな港町で今、夏の芝居の台本を書いている。
三國出身の戯曲作家・近松門左衛門。その代表作の一つである「傾城仏の原」をテキストに、現代の若者が見てもじゅうぶんわかるように脚色を加えながら、毎日せっせとパソコンに向かっている。
今回の台本作りは、ちょっと変わっている。
まず、戯曲の「傾城仏の原」の脚本原本というものがない。当時、歌舞伎の世界では脚本と呼ばれるものはなく、ほとんどが口移しで伝えられたと聞く。だから、現在残っている台本と呼ばれるものは、映画で言えばノベライズ、所謂あらすじ本のようなもの。もちろん言葉は文語体のまま。まず、これを古文の得意な友達に口語訳してもらい、それから脚色を始めることにした。
直訳の台本は、ページ数にしてA4用紙で約60枚の長編。
これはこのままやると、上演時間は全編約3時間から4時間。おまけに登場人物が多く、出演者は少なく見積もっても総勢20人。僕のこれまでの作品は、上演時間が長くて1時間40分、出演者は多くて8人。上演時間が長い上に、20人の交通整理を短期間(稽古期間は約1月)で仕上げる自信はない。
とりあえず、脚本の全体の構成を変え、登場人物も10人に絞り、目標枚数もA4・40枚に決めた。
朝から晩まで、パソコンの前に座ってモノを書く。格闘の日々は始まった。
台本作りにここを選んだのには理由がある。まず、物語の舞台、公演場所、原作者の出身地、が全てこの地であること。それよりなにより、ここだと集中してモノが書ける。東京にいると、ついつい用事にかこつけて、書く作業から逃げてしまう。ここにいれば、誰も連絡を取ってこないし、たとえ連絡があっても、都内まで出て行くことは不可能。自分を追い込んで書くには、絶好の場所だ。
そういえば、これまで地方にカンヅメになってモノを書くことはなかった。これが最初。生まれて初めての経験。この歳になっても、生まれて初めてのコトは、まだまだ多い。うん、人生はいいものだ。
書き始めてから8日目、3ページ書いては2ページ削除の繰り返しをしながらも、なんとか初稿が完成。
ホッと一息。
昨年のお芝居でお世話になった、地元の料理茶屋に御挨拶に行く。
ここの御主人は、昨年の芝居で主役をやっていただいた方。本番では、素人ながらも素晴らしい演技。あらゆる方が惜しみない拍手を送った。そのご主人と、久しぶりの再会。ご主人はビール、僕はぜんざい。ボツボツと去年の芝居の思い出を語っていると、ひとりの地元の方らしい御老人(見たところ80歳前後)が入ってきた。カウンターに腰を下ろし、お店の女将さんと話を始めた。
老人「今日、妻をお風呂に入れたよ」
女将「まぁ、ステキ」
老人「重くて、重くて、死ぬかと思った・・・」
女将「なに・・・抱っこしたの?」
老人「ああ、こうやって・・・」
女将「きゃっ、お姫様抱っこ!」
老人「腕がもげるかと思った・・・」
女将「奥さん、喜んだでしょ」
老人「(それには応えずに)湯船に浸けて体を擦ったらさぁ、体から白いモノがたくさん出てきた・・・」
女将「洗ってあげたの?優しいのねー」
老人「垢だな、あれは・・・」
女将「アカって言うより、アイね、それは」
老人「汚ねえんだよ、すごく・・・」
女将「いいわねー、愛されてるわ、奥さん」
老人、またまたそれには応えず、カウンターの上にあった携帯を手にして、
老人「あっ!お宅の旦那、携帯なんか買ったの?へー、三國も変わるねぇ・・・」
何気ない会話の中に、何気ないドラマがある。とてもじゃないが、こんな何気ない台詞は書けない。いつか、自分にもこんな台詞が書ける日がくるのだろうか。老人の会話に心を奪われながら、そう思った。
裏日本の湊町。ふと、自分の才能の無さを確認した夜だった。
2007.2.4 掲載
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