第87回 最後の映画出演(?)
自分の高校の後輩が初監督をすることになった。
僕が卒業をした高校は、愛知県でも有名な私立の進学校。東大へ入る人間が年に何人もいる。そんな進学校から、この世界に入る人間なんかほとんどいない。中でも映画監督なんかになるのは、僕が知っている限り彼が初めてだ。
名前は宮田宗吉。
彼と初めて出会ったのは、「顔」という阪本順治監督の映画。当時、宮田君はサード助監督だったと記憶する。撮影の合間に出身地の話になり、お互い同じ高校出身ということが判明。
僕は決して母校を愛するタイプではないが、映画界という特殊な世界で、自分と同じ高校の人間と出会うという、奇妙な縁を彼に感じてしまった。私立の進学校を卒業したにもかかわらず、映画の世界にいること自体、かなり屈折しているはず。
そんな宮田君が初めて映画を撮るという。なんだかすごく嬉しく思う自分がいた。
そして、なんと、僕に出演依頼が来た。しかし僕は、身体の調子が悪いため、今は俳優業をやっていない。
けれど、後輩の初監督に、先輩としてなんとか協力したい。毎日の撮影はキツイけど、とびとびならなんとかならないことはない。連続の撮影は勘弁してもらうことを条件に、出演を承諾することに。
久しぶりの俳優業。まずは台詞が覚えられるかどうか不安だ。
台詞覚えというのは、ひとえに慣れというのが影響する。常に台詞を覚える習慣が付くと、なんとなく覚えが早くなる。逆にブランクが空けば空くほど、台詞覚えは難航する。
台詞というのは役者ひとりひとり、覚え方がまったく違う。
僕の場合、基本的にまずストーリー全体の流れを把握する。それから、シーンの順番を入れ、それぞれのシーンの持つ意味などを掴み、だいたいそのシーンで言っている台詞の内容をたたき込む。そして最後に一つ一つの台詞を記号的に覚える。
なぜ記号的に覚えるかというと、ニュアンスとか節とかつけて覚えると、撮影現場に入ってから、監督のダメが出たときに柔軟に対応ができないからだ。
なので、この台詞覚えの時は、なにか、日常的な作業をしながら覚えることにしている。たとえば掃除とか洗濯とか食器洗いとか。
一番多いのが散歩。散歩をしながら、ブツブツ言って覚える。
想像して欲しい。中年男がブツブツなにかを呟きながら徘徊している。端から見れば、ほとんどアブナイ人だ。
それでも台詞が入らない場合、これは家庭内でも続く。ごはんを食べているとき、風呂に入っているとき、トイレに入っているとき。
家族からはもう非難囂々。でも、仕方がない、それが仕事なのだ。この作業、撮影が終わるまで続く。
で、久しぶりの俳優業がどうだったかというと、これがたいへん。なにがたいへんかというと、後輩の宮田監督、これが意外に粘る。演出に細かくて、なかなかオッケーをくれない。
「もっと、明るく演じて下さい」
そういうので、笑顔をまじえて演じると。
「笑わないで下さい、もっと深刻さを出してください」と言う。
ならばと、今度はしっとりと演ってみる。
すると、
「湿っぽさはいらないんですよねー」と曰う。
うーん、どうすればいいのか・・・・
そんなくり返しが延々続いて、本番。
本番も何度もテイクを重ねる。そして、何度も演るうちに、僕の頭がパニックを起こす寸前にOKが出る。
今時の若い監督にしては、演技に対してこだわりを持ち、演技をキチンと見て演出する姿は、立派。
でも、久しぶりの粘る監督の出現にこちらはもうヘトヘト。病気を抱えた身としては結構シンドイ思いだった。
しかし、高校の後輩が、こうして俳優の演技に対し、粘る監督を目指しているのは嬉しかった。
映画監督は大体に置いて、映像としての絵づくりにこだわる監督と、俳優の演技にこだわる監督の二つに分かれると思う。
もちろん「両方大事」とどの監督も思っているとは思うけど、俳優側から見ると、歴然として、どちらかに比重を置いているのがわかる。
最近、パソコンなどの進化によって、素人でも簡単に映像を撮れる状況になった。そう、素人でもひたすら撮り続ければ、そのうちにいい絵は撮れるのだ。
でもどうだろう、いい絵は撮れても、俳優にいい演技がつけられるかどうかは難しいとこ。いい監督とは、きちんと俳優にいい演技をつけられるかどうかなのだ。
もちろん、宮田監督がいい監督なのかどうかは、作品が完成してみないことにはわからない。
でも、僕が出会ったいい監督は、みな俳優の演技にこだわりを持ち、粘っこい演出をしていた。
こだわりと粘り強さ。
これはいい監督と呼ばれる人たちの最低条件である。
さあて、宮田監督の初監督作品、そして、僕にとって、最後の映画出演になるかもしれないこの作品。
完成が楽しみである。
2006.9.16 掲載
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