第66回−番外編− 業の深さと表現の豊かさは比例する
僕の出会った天才たち、ということで女優3人・男優3人、計6人の天才俳優さんを挙げてまいりました。
この中で、純粋に役者だけをやっていらっしゃるのは、藤山直美さんと美加理さんの二人だけ。戸川純さんは音楽活動もやってますし、飴屋さんは美術家、江頭さんと清水さんのホームグラウンドは「お笑い」と、多種多才の方が多いのに気がつきます。
なぜ僕は純粋な役者さんのことがあまり好きではないのでしょうか。
それはきっと、役者の持ついやらしさ、自己顕示欲に、自分の姿を見るからだと思います。
それと、音楽や美術やお笑いと比べると、人間としてクレージーな部分、言うなれば人間としての業というか、ドス黒い部分が薄いのも、その理由に挙げられます。作家の車谷長吉さんが「業柱抱き」(新潮社)という本の中でこう書いています。
- 小説を書くというのは、この男のように狂気するのではなく、正気で風呂桶の中の魚を釣ろうとすることではないか。それを一生続けるのは辛いことだろうけど、僕はきみにそれをやって欲しいんだ。きみなら出来る。正気で一生風呂桶の上に釣竿を差し続けて欲しいんだ。魚なんか、一匹も釣れなくたっていいじゃないか。それが、小説を書くということじゃないか
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この小説という部分を表現に置き換えてみて下さい。そのまま使えると思います。正気で気の狂った行為を繰り返す。やっぱりそれは狂人の域に入るのではないでしょうか。表現は大変なことなのです。
役者はあくまでも作品作りにおいてはパーツです。集団でものを作る上で、ある程度のバランス感覚が要求されます。僕に言わせれば、このバランス感覚が面白くない。演技(表現)を小さくしてしまうように思われてしかたがないのです。ここのところ、小劇場ブームであちこちの劇団が作品に笑いを取り入れています。そのことについて別にとやかくいうつもりはないのですが、とにかく小劇場の「笑い」が面白くない。お笑い芸人が「笑い」に一芸入魂しているのに対し、小劇団のそれは、ゆるーい「笑い」になってしまっているからです。
僕も昔、萩本欽一さんにしごかれて「笑い」を学ばせていただいたことがあります。そのときに感じたのは、「笑い」をやるにはかなりのエキセントリックさが必要だということでした。この狂気の中に自分を置いて、なおかつ家族を持ち、社会的に生きていく勇気が僕にはなかったのです。だから僕は「笑い」からは身を引き俳優の道を選びました。でも、俳優の道も決して楽なものではなかったのですが・・・・・。
「笑い」のなかにあるクレージーな部分。これは自分の死と引き替えに得るもののような気がします。 僕が好きになる表現者は、みな「死の臭い」が漂っている人ばかりです。その人が背負っている業の深さと表現の豊かさ。これは比例しているように感じます。
人間は死を意識しないでは生きていけません。自分の死と、どう向き合い、どう闘うか。
表現に関わる人間は、いつも大変な思いで生きています。
そんなことを頭の隅に入れながら、表現を見るのもいいものではないでしょうか。
どうでしょう。
次回からは、また違ったお話をお届けしようと思っております。お楽しみに。
2005.10.31 掲載
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