第63回−番外編− 現代美術の異端児、飴屋法水
美術の枠組みの中に現代美術というジャンルがあります。
現代美術の支援をしている団体の方に聞くと、今、芸術という枠の中でいちばん恵まれていないのが、この現代美術だそうです。
飴屋法水は知る人ぞ知る、現代美術の異端児です。
1961年生まれ、役者・演出家・ペットショップオーナー・現代美術家。
彼は早生まれなので、1960年生まれの僕とは同学年になります。
1978年、唐十郎率いるアングラ劇団「状況劇場」に音響兼役者としてデビュー。スリムで端正な顔立ちの彼は、永遠の美少年現る、という謳い文句とともに、演劇少年だったこちらにも噂として入ってきました。
当時のことを女優で俳優・佐野史郎の奥方でもある石川真稀さん(同じく「状況劇団」出身)に聞いたことがあります。
「唐十郎が唯一、その感性を信頼し認めていた人物」
そう評しておりました。
1984年、「東京グランギニョール」という劇団を俳優・嶋田久作らと結成し、前衛的な演劇活動を展開します。
このころ、僕はサラリーマンでした。「東京グランギニョール」は今で言うテクノ・ロリータ・ユニセックスの先駆けで、彼らの芝居を観ては、なんて自由にカッコイイことをやっているのかと、同い年なのにいつも時代の先端を行く彼に、かなりの嫉妬を覚えたものでした。
そして、1990年代前半に「テクノクラート」を結成し、美術界に登場。
『血液交換計画』や『公衆精子計画』など、精子や血液、細菌などを実際に用いた作品を発表します。
彼が個展を開いた場所のひとつに、レントゲン藝術研究所というスペースがありました。 僕はそこの空間がとても気に入り、というより飴屋法水と同じ場所で表現をしたかったのでしょう。
是非、自分たちのパフォーマンスを演らさせてほしい、と交渉をしたことがあります。
そこの代表者から、
「飴屋法水くらいの才能がない奴には貸さないよ」
と言われ、けんもほろろに帰されたのでした。
その後、彼は何本かの演劇作品や美術作品を発表しますが、
「演劇も美術も食えん」
といって、95年からは東中野でペットショップ「動物堂」を開店。日本では滅多に見られない珍獣の販売を行うようになりました。
そう、天才的な才能があっても日本では食えないのです。
まぁ、飴屋さんの場合、それは仕方がないのかもしれません。飴屋さんの作品作りは、鉄のオブジェを空間いっぱいに配置したり、植物で劇場中埋め尽くしたり、とにかくいろんな面で過剰なのです。お金や人がいくらあっても足りません。自業自得のところもあるのです。
でも一線から離れてペットショップのオーナーにおさまっている彼を見るのは忍びないし、勿体ない。
なんと言っても彼は天才なのですから。
1998年夏、僕は島尾敏雄原作の「SINO=TOGE(死の棘)・1999」の舞台化を企画しました。そして、島尾敏雄役に飴屋法水に白羽の矢をたてたのです。
出演交渉をしに、僕は「動物堂」に行きました。動物がわりと苦手な僕は、店内に放し飼いになっているふくろうに戸惑い、緊張に拍車をかけていました。
飴屋さんは餌に使う冷凍ネズミをレンジでチンしていました。ネズミが大嫌いな僕は、もう吐きそうです。飴屋さんは解凍されたネズミを珍獣たちに与えながら、
「やりましょう」
わりとあっさり、そう言ってくれました。
島尾敏雄に飴屋法水。
妻のミホには美加理。
美加理、という女優については前回で紹介したとおり、演劇集団「ク・ナウカ」の看板女優。そう、アングラ界の帝王と女王がそろったのです。面白くなるに決まっています。
稽古は壮絶を極めました。天才肌の二人が魂を込めて闘い、それを表現にしていく。妥協を許さない物作りに、スタッフサイドの気合いも入ります。
それはとてもいいことなのですが、気合いが入れば入るほど、想像も拡がり、試してみたいことがたくさん出てきます。しかし、制作資金には限界があります。結局なにかを諦めなくてはいけません。そう、妥協というやつです。
そんなとき、飴屋さんは、こう言いました。
「お金がないのならスタッフの女の子を風俗にでも働かせればいいじゃないですか。それぐらいの覚悟がなければ、表現はしちゃあダメですよ」
もちろん本気で言っているのではありません。飴屋さん自身もお金には随分苦労してきたし、それだけ日本での芸術活動は大変だから甘い考えは捨てたほうがいい、暗にそう言っているのです。
なんだか刃物を突きつけられた気がしたものでした。
飴屋さんの逸話はまだあります。
彼は稽古場には台本を持ち込まない人でした。つねに台詞は完璧に入っているのです。
「台詞はどうやって覚えているのですか?」
「僕は一度読んだら、覚えてしまうのです」
なんと言う記憶力でしょうか、俳優の時は劇場まで台本を持ち込む自分が情けなくなります。
それと、時間軸がない人でした。
電話をかけてきては平気で3時間ぐらい喋るのです。そんなに長くなるのなら会った方が早いのに、大事な話はいつも電話。それもかなりの長時間。彼は電話が好きなようですね。
公演の日にはわざわざ田舎に住む彼のお母様が観に来ました。しかし、彼は決して会おうとしません。
「せっかく田舎から母親が観にいらっしゃったのに、本当に会われないのですか」
「はい」
彼はさも当然のように答えるのです。
どんな事情があるのかわかりませんが、変わった親子関係だなぁと思ったものでした。でも、これらの出来事も飴屋さんならではと、こちらが納得してしまうのが不思議です。とにかく、なんでも"あり"の人で、天才という言葉がよく似合う人でもありました。
飴屋さんはじめみんなのおかげで、「SINO=TOGE(死の棘)・1999」(THE PIT・新国立劇場)はとてもいい作品になりました。
だけど、才気走った人たちとがっぷり四つに組んだ僕は、身も心もぼろぼろになり、しばらくリバウンドに苦しみました。
「動物堂」は99年から、「OWL ROOM」と改名し国内初のフクロウ専門店としてリニューアルしましたが、2003年9月に廃業。現在は冷凍エサ・栄養剤の宅配販売のみ行っています。
天才・飴屋法水は昨年父上を亡くされました。そして、再び美術界に舞い戻り、2005年7月末、六本木P-HOUSUにて久しぶりに個展を開催。
今後の天才の生き方が、とても楽しみであります。
2005.9.15 掲載
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