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第141回 松尾文夫さん急逝

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松尾文夫さん(2017年6月撮影)

松尾文夫さんが米国東部時間2月25日、ニューヨーク州シラキュースのホテルで85歳で急逝されたとのニュースを受けて愕然とした。プレス・クラブのバーでインタビューされていたり、校正されているお姿をいつも見ていたので、伝説のジャーナリストとして生涯現役で100歳まではお元気で執筆され続ける、と勝手に思い込んでいたからだ。

松尾文夫さんに初めてお会いしたのは2006年12月13日、自衛隊入間基地の海上自衛隊C-1輸送機の前だった。水の入った特大ペットボトルを10本もぶら下げておられるので「どうなさったのですか?」と伺うと、「防衛庁に硫黄島でほしいものは?と尋ねると『水を持ってきてくれ。水をくれ、水が欲しいといいながらみんな死んでいったのだから』と言われたので」というお返事。私も数本持たせて頂いて、硫黄島に到着してから記念碑や墓碑に水を注がれるのを少しだけ手伝わせて頂いた。

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2006年12月13日、硫黄島プレスツアー参加特派員たち。
茶色ジャケットの松尾文夫さんは筆者(赤シャツ)の右

歴史の中の立位置

1956年3月学習院大学政経学部政治学科卒業後、4月に共同通信に入社した松尾さんは本社社会部、本社外信部長を経てニューヨーク、ワシントン特派員としてキューバ危機、人種差別反対大行進、ケネディ暗殺、ベトナム反戦運動など激動する米国の社会を報道した。バンコク支局長、ワシントン支局長、論説委員などを務めた後には84年から共同通信、米国AP通信、ダウジョーンズの国際金融サービス「テレレート」、(株)共同通信常務取締役、(株)共同通信マーケッツ代表取締役社長を歴任したが、2002年5月松尾文夫事務所を設立し68歳でジャーナリストに復帰された。

松尾さんのジャーナリストとしての歴史的立ち位置の原点には、戦争の相互犠牲者に対する追悼の念と、日本人として、また松尾家の人間としての誇りがあると推察する。小学3年生だった1942年に、東京山手線新大久保駅近くの戸山小学校の校庭から、東京初空襲で飛来したB-25爆撃機(ドーリットル空襲)を見上げ、敗戦27日前の1945年7月19日には、疎開先の福井県福井市で、127機のB-29爆撃機による死者1784人重軽傷者6039人を出した大規模な福井空襲(夜間爆撃)で家族と共に被爆した体験がある。加えて日本人には広島、長崎の被爆者の大きな犠牲がある。

さらに遡ると1936年「二・二六事件」の際、当時の岡田啓介首相の身代わりで反乱軍に殺害された首相の義弟であり秘書官だった松尾伝蔵大佐の孫であるという誇りがあると考える。また学習院時代、今生天皇のご学友であったという事実はジャーナリストとしてあえて筆にしなかったがご自身の生涯の姿勢であったと思う。

[硫黄島プレスツアー(2006年12月13日)の写真]

昨日プレスクラブから緊急に届いたニュースでは、松尾さんは小学校3年時に生まれて初めて顔を見た白人「東京初空襲」のドーリットル爆撃隊隊長機の副操縦士リチャード・コール氏を2017年テキサスの自宅に訪問されている。そのコール氏は4月9日104歳で死亡されたという。

『オバマ大統領がヒロシマに献花する日』(小学館101新書/2009年)などで提案した、真の戦後和解のための日米首脳による広島・真珠湾相互訪問「献花外交」は、2016年にオバマ大統領、安倍首相によって実現された。このジャーナリスト活動の功績により松尾さんは2017年度の日本記者クラブ賞を受けられたが、個人的にも自分が遭遇した「東京空襲」のパイロットに会いにゆかれていたのだった。

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錆果てた砲身を点検する松尾文夫さん(2006年12月13日撮影)

手元に松尾文夫さんから頂いたお著書がある。

Democracy with a Gun
銃を持つ民主主義
「アメリカという国」のなりたち

渡辺晴子様
「日本という国」のために
硫黄島旅行の出会いに感謝して。

2006年12月
松尾文夫

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松尾文夫さんと筆者(2006年12月13日)

2019.4.25 掲載


著者プロフィール
渡辺 晴子(わたなべ はるこ) : HKW、シカゴ・サン・タイムズ、アジア新聞財団(東京支局長)を経て、現在HKW代表メディア・リポート特派員。30年来の(社)日本外国特派員協会会員で、副会長、理事、監事、選挙管理委員長を歴任し、現在は特別企画委員長、永世会員。同協会の取材活動、文化事業を企画している。また上智大学講師、ユネスコ「女性とメディア」開発コンサルタントとして内外のジャーナリストを育成。
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