WEB連載

出版物の案内

会社案内

第67回   『ホーリー・モーターズ』
□□□   レオス・カラックス監督記者会見

「カイエ・デュ・シネマ」誌にて2012年度ベストワンに選ばれた他、多くの映画祭にノミネート&受賞し、注目を集めている『ホーリー・モーターズ』。レオス・カラックス監督が来日してのマスコミ記者会見が、1月28日に渋谷のユーロスペースにて行われました。その模様をたっぷりお届けします!

* * * * *

photo
レオス・カラックス監督

Q.今回の映画の着想はどこからきたのでしょうか?

A.映画のプロジェクトを開始するとき、最初にあるのは思想ではありません。いくつかのイメージと感情が出発点にあります。この映画の出発点にあったのは、相反する二つの感情です。
  今回の場合、第一の感情は「自分自身であることの疲労」、自分自身であり続けることの疲れという感情です。もう一つの感情は、それとは逆に、「新たに自分を作り出す必要」という感情です。これは誰もが感じているものだと思います。

ただ、自分を新しく作り変えることは難しいことですし、勇気が必要です。しかし、このような必要を感じないでは、人々は生きてゆくことが出来ない。一生同じ一人の人間だけでいることは出来ないのです。ある人は自分自身であり続けるために戦い、そして自分自身であることに疲れていきます。その一方で自分を新たに作り変えていく必要を感じているのです。そこから俳優のメタファーが生まれてきたのだと思います。


Q.撮影現場で一番苦労したシーンはどこでしたか?

A.そのような困難が映画に付き纏うのは、当たり前のことではないでしょうか。映画はいつもそのような困難と対決しながら作られるものだと思います。私が作っているものはドキュメンタリーではありません。フィクションを作っているのであれば、すべてが、私の意図に対して抵抗してくるのは当然です。
  『TOKYO!』の撮影のときはとりわけ特殊な事情がありました。それは撮影許可がない場所で撮ったということです。そうでなくてもすべてが抵抗します。パリのサマリテーヌ百貨店で撮影をしたいと思っても、その権利がない。お金があれば、スタジオにサマリテーヌ百貨店を再現して撮ることが出来るでしょう。しかし完全にCGにもしたくありませんでした。このように現実の側から抵抗が来ます。そしてまた、俳優が疲れているとか、私が疲れているとか、そういった意味での抵抗もあります。

しかし映画作家であれば、誰しもそういった困難に対決することが出来なければなりません。また、私はそれをすることが好きです。映画のポエジーは、映画の中にあるドキュメンタリー的な部分から生まれてくるのだと思います。自分の目の前に俳優がいて、その俳優の肌、身体がある。それは一種の化学です。そうしてその身体に衣装を付け、音楽に乗せ、演出をしていかなければなりません。こうしたドキュメンタリーの部分とそうでない部分、両方がなければならない。
  私は先ほどヴァーチャルな世界と言いましたが、ヴァーチャルな世界に興味はありますが、無理やり押し付けられるのは嫌です。デジタルカメラの使用についても反対ではありませんが、デジタルカメラを無理やり押し付けられることは大嫌いです。


Q.冒頭で劇場のシーンが出てきましたが、監督は映画を観る観客をどう捉えていらっしゃるのでしょうか?

A.私は映画を作るとき、観客のことはまったく考えていません。観客よりむしろ私自身のことを考えていると思います。冒頭のショットですが、まさに今私がここで見ているのと同じような光景です。プロジェクトが始まるとき、いくつかの感情といくつかのイメージから、私は映画を考え始めます。その、最初に出てきたイメージの一つが、眠っているのか死んでいるのか分からない観客を正面から見る、というものでした。普段は絶対に見ることが出来ないようなイメージです。もう一つ、最初にあったイメージは、セーヌ川に掛かった橋の傍らで、私が何年も前からよくすれ違っていた物乞いの老女です。観客について言えば、観客がなんなのか、私はよく分かりません。かなり人数の多いグループであって、間もなく全員が死んでいくだろうということしか私には分かっていません。このように私は、観客がなんなのかまったく理解していません。


Q.リムジンに乗って人生を渡り歩く、という着想はどこからきたのでしょうか?

A.最初にリムジンを思い付きました。あの長いストレッチ・リムジンを、私はパリでよく見かけます。私はパリの中華街の近くに住んでいて、中国人は結婚式によくあのリムジンを使います。ですから日曜日などに、花やリボンで飾られたリムジンをよく見かけるのです。 私はそのリムジンにとても驚かされました。なぜなら、結婚式の乗り物というよりも、大きな棺桶のように見えて、不吉であると同時にエロティックなところがあるものだと思えたからです。人の目を惹くためのことをすべてしているのに、決して中が見えることはない。少しヴァーチャルな世界とも繋がるような気がします。

リムジンをフィクションの中心に置いたとき、私は中にいる人を想像しました。普通リムジンは自家用車として買うものではなく、時間極めでレンタルするものです。ですから、その中で人々は、リムジンを借りている間だけ、何らかの役を演じています。すなわち、自分を普通よりもお金持ちに見せるとか、有名人に見せるとか、あるいは自分を隠すため、自分を見せびらかすため、といったかたちでリムジンは使われています。そこで、借りている間だけではなく、リムジンに乗って様々な実像を絶えず変えていく役、生涯を通して様々な役を演じている人物というのを思いつきました。


Q.主人公・オスカーを導く、運転手のセリーヌは、物語の中でどういった役割を果たしているのでしょうか?

A.最初にリムジンを思い付いたのですが、そうすると今度は、誰がこのリムジンを運転するのか、という問題になってきます。このプロジェクトにセリーヌがどのようにして到来したのか、自分でもよく分かりません。そのとき、プロジェクトはかなり進行していて、私はフランスの古い、幻想的な映画を思い出しました。
  これは知られていますが、今では稀有となってしまったような映画です。たとえばルイ・フイヤードの映画、そしてジョルジュ・フランジュの映画です。特にジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』ではエディット・スコブが主演をしていました。実は、エディット・スコブには『ポン・ヌフの恋人』に出演してもらいましたが、編集の段階でそのシーンはカットになってしまいました。『ポン・ヌフの恋人』の中のエディット・スコブは、僅かに髪の毛が写るだけです。ですから、彼女を使ってもう一本映画を撮らなければならないと思っていました。そこで彼女を運転手に起用することを考えたのです。

こうして運転手は、年配ではあるけれどもとても美しい女性、エディット・スコブということになりました。けれども、セリーヌの役割がなんなのか、私にとっても謎です。運転手であるけれど、秘書のようでもある。そして物語が展開するにつれて、彼女が段々に権威を持つ存在になっていきます。彼女がキーを持っていて、またオスカー氏に支払われる給与も彼女が持っています。どうしてそのようになっていったのかは、自分でも説明が付きません。


Q.長編作品の公開がなぜ十三年ぶりとなったのでしょうか?

A.長い間が空いてしまったことには様々な理由があります。自分が作りたいときに、作りたい方法で映画が撮れるわけではないのです。私自身、『ポン・ヌフの恋人』を撮った後、次回作を撮るのが難しい状況になってしまいました。そして『ポーラX』は大失敗でしたから、その後さらに映画作りが難しくなってしまいました。
  また、人生の様々な出来事に映画製作を妨げられてしまうこともあります。映画を作るには、健康と、二、三人の共犯者、そしてお金が必要です。これらすべてが同時にいつも揃うとは限りません。確かに、もっと沢山映画を作りたかったとは思います。しかしいずれにせよ私は多作な映画作家にはなっていなかったでしょう。八十年代に三本作っていますが、その後十本ぐらい作っていたかったとは思います。けれども、そうした多作な作家にはなりませんでしたし、次の長編まで十四年かかるかどうかは自分でも分かりません。


Q.もしも監督がオスカー氏ならば、どんな役をやりたいと思いますか?

A.もう既にあまりにも多くの役を演じ続けています。たとえば映画に興味を持つ遥か以前、十三歳のときに、自分の名前を変えました。その後、人生で様々な役を演じ続けていて、それはとても疲れることだと思います。若いときに映画作りを始めましたが、私は映画を勉強したわけでもありませんでしたし、一作目を作る以前には撮影現場に入ったことすらありませんでした。そのような状態で映画を作るとき、何かごまかしをしているのではないか、インチキをしているのではないかという気持ちになってしまいます。そこで、外に向かっては、いわばハッタリを利かせたり、嘘を吐いたりしなければなりませんでした。二十歳で「自分はこの映画を作りたい、作ることが出来る」と言うとき、それは絶対に嘘になってしまいます。

photo

このようにして役を演じ続けているわけですが、そうやって様々な役を人生で演じるということは、前に進むためでもあり、また、自分を守るためでもあるでしょう。そのほかにも、プライベートな部分で様々な役を演じています。それは恋愛や、子供にも関わる役なのですが、私はむしろ、それらの役を演じることが好きです。人はそうした演技を辞めたとき、もっとも疲労感を持つのではないかと思います。それが映画なのか恋愛なのかは分かりませんが、誰しも、どこか、そこにいけば自分がなんなのか分かる場所があるはずです。このようにすべての人々が、演技をしているときと、自分自身が誰なのか知ろうと努力をしているときの間で、旅を続けているのではないでしょうか。


Q.オスカー氏とは一体誰なのでしょうか?

A.ある人生から別の人生へと移りゆくとき、傷付かずに抜け出すことは出来ません。そしてそれは観客にしても同じなのだと思います。普通は、生きることと、生きることの表象の境界をはっきりさせようとする傾向があるかと思います。けれどもこの映画に於いては、何度もその境界が曖昧になっています。たとえカツラを被っていてもそんなことは忘れて、これが本当のオスカー氏なのではないかと思うこともあるはずです。

オスカー氏が本当は誰なのか?ということは何度も質問されましたが、私には分かりませんし、そうした疑問は提起されるべきではないと思うのです。この映画は恐らく、自分が誰なのか探している人間を描いている。そのとき、オスカー氏が誰なのかという疑問に対して、答えはないのです。なぜならこの映画は短い時間で構想し、短時間で撮影し、ラッシュも見ませんでした。ですから、私は編集の段階で初めてこの映画を発見したと言ってもいいでしょう。その瞬間に、この映画に対して一定の方向性を与えなければならないと感じました。このとき初めて、観客のことを頭に浮かべます。たとえば最初の二十分間は、観客にとって難しいものに見えるかもしれません。しかし、セリーヌを始め、ここに登場する若い娘や子供、年老いた女性など様々な年齢の女性たちとの出会いを通じて、これは一つの長い人生を一日に凝縮したものであるということが段々と分かってきます。なぜならば、それこそが、現在生きている経験として、私が提供出来る唯一のものだからです。


『ホーリー・モーターズ』
2013年4月より全国順次ロードショー
■公式サイト: http://www.holymotors.jp/

2013.2.28 掲載

著者プロフィールバックナンバー
上に戻る