先日、日本が誇る映画監督
“新藤兼人の世界”
にどっぷり浸ってきました。
これは、映団連が主催するセミナーで、
新藤監督をゲストに迎えてのトークショーと
監督自らが選んだ『鬼婆』(1964年作)の上映会、
という2部構成です。
97歳を目前にして、衰え知らず!
情熱ほとばしる新藤監督の生き様を
ダイジェストでお送りします!
☆聞き手:品田雄吉氏(映画評論家)
■映画との出会い
13,14歳の頃は、何かやらねばならない、と思いながらも、
何をやっていいかわからない状態。
今の若者と何も変わらなかったそうです。
道が見えたのは20歳を間近にしたある日のこと。
尾道で山中貞雄監督「盤獄の一生」を見て、
映画監督になろうと決心。
自転車屋で集金係をしながら貯金して京都に行き、
22歳のときに念願の映画の世界入り。
新興キネマの現像場に配置され、監督の映画人としての
道が始まりました。
■脚本への目覚め
脚本に興味を持ったキッカケは、
たまたま現場で目にした薄いシナリオ。
はたしてこれでいいのか、と疑問を抱き、
先輩や外国作品を読みながら、
独学でシナリオを学んだとのこと。
その後、運よく溝口健二監督の内弟子になる機会を得るものの、
自作脚本に対して
「これはシナリオではなく、ストーリーだ」
と言われ、大きなショックを受けたそうです。
そこで、根本からシナリオを勉強したいと思うようになり、
近代劇全集43巻を読破。日本、外国の戯曲をむさぼり読んで
力を蓄えていったとのことです。
■脚本のテーマ
戦後、松竹を経て独立。近代映画協会を旗揚げする。
これまで書いた映画の脚本は250本。
戦争から戻って、生き返ったつもりで全身の力を振り絞って
がんばってきたそうです。
脚本のテーマは、一貫して、
「親子、妻、友人との関係など、
自分が関係したこと、自らの生き方に根ざしたもの」
で、
最新作『石内尋常高等小学校 花は散れども』は
自らの尋常小学校時代の恩師の話、ということです。
■新藤流・映画づくり
「まもなく97歳だが、いつも25歳の気持ちでやっている。
映画という仕事があるから生きていられる」
と語る新藤監督の映画は、合宿方式で作られるのが基本。
今回上映作として選んだ『鬼婆』(1964年作)は、
一面のススキ野原が舞台。
千葉の印旛沼にプレハブの合宿所を建てて製作した。
「低予算でも意志と行動力があれば、撮影所がなくても
日本中どこでも映画を作れるという証明をしたかった」
「泥にまみれることこそ映画作りの醍醐味」
と熱い想いを語る新藤監督。
90日間の撮影を経て、自らのやり方に自信をつけたそうです。
■『鬼婆』を語る
南北時代が舞台。
戦乱のさなか、農民や庶民はどうしていたのか?
その隠れたエネルギーを描こうとした、とのこと。
「自分の考えたことができた作品」
ということで、今回の上映に選定したそうです。
また、
「映画は独立でつくるが、配給、興行主が必要。
その連携がうまくいった作品」
とも語っていました。
■新藤監督にとっての映画とは
最後は、監督の映画への想いを語ってシメとなりました。
「映画とは、私自身。
私の生き方、私が考える人生、
望む生き方を映画にしてきた。
これからも生きている限り、私自身を映していきたい」
会場中がジーンという感動で包まれた瞬間でした。
1つ1つの言葉に重みがあり、
新藤監督の生き様をまざまざと実感しました。
それと、インタビュアーを務めた品田雄吉さんの
活躍も光りました。
新藤監督の魅力を存分に引き出し、
温かい空間づくりを演出する腕は、さすがの一言。
僕が聞きたかったことも全部聞いてくれました(笑)
ちなみに、品田さんがイチオシする新藤作品は
『裸の島』と『午後の遺言状』とのことです。
僕からは、新藤監督の著書『いのちのレッスン』(青草書房)を
おすすめします。
映団連の皆さん、素敵な機会をいただき、
どうもありがとうございました。
次の新藤作品の誕生が待ち遠しいです!!
●社団法人 映画産業団体連合会
http://www.eidanren.com/
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