●テキストを〈読む〉ということ
久しぶりに中高生たちの文章に触れて感じたことは、「自分の意見」を〈言う〉こととテキストを〈読む〉こととの乖離感だ。
すぐに、「自分の」評価を下し、すぐに「自分の」意見を述べてしまう。「自分の」意見を述べる前に、福沢諭吉自身が『学問のすすめ』の中で何を言おうとしているのかの読み込みが足りない。
そもそも「自分の」意見と思えるものも、先人の形成した文化の中で培われてきたものだ。テキストを読むことと「自分の」意見を述べることとは、特に異なる作業ではないことを理解する必要がある。
優れたテキストであればあるほど、すべての議論をそこに蔵したものであって、その議論を読み込むことが「自分の」意見の処理の仕方を教えてくれる。
優れたテキストとは、「自分の意見」の出番がないほどに先行的で内面的な議論を反復してくれるもののことを言う。
さらに気になったのは、「ここは賛成する」、「ここは同意できない」というように、まるで会議の議論をするかのように「自分の」意見を言う文体が多かったこと。
〈テキストを読む〉ということがまるで心理主義的な賛否を巡って行われるように錯覚している中高生が多かった。
テキストは「同意」「非同意」を巡って心理主義的にアプローチすると、何も見えてこない。というのもテキストは心理主義的には声を上げない。いつも沈黙しているからだ。
これはいったい何なのだろう。〈テキストを読む〉ことは、賛成、反対の以前に、なぜそういうことを言うのか、という問いが先立たねばならない。
これは、死者の声を拾うような孤独な作業だ。しかし、その声こそ騒々しく、どんな現在の対話よりも活発で質の高いものである。それがわかることが〈テキストを読む〉ということだ。
わかったところだけを剽窃しても、読んだことにはならない。すべての言葉は和音として〈一つの音〉を出している。〈全部〉が鳴ることによって〈一つの音〉を出している。その〈一つの音〉から一つ一つの言葉、文節、行、段落が存在している。
何が書いて〈ある〉のか、というテキストの〈像〉への参照性なしには、個々の言葉への言及はほとんど意味をなさない。〈引用〉とはその像の理解なしには意味のないもの。〈像〉を離れれば、すべてはご都合主義の引用でしかない。
今回の私の審査では、特に内容が優れていると言うよりは、地の文と引用との関係がバランスの取れているものを優先して選んだ。
芦田賞の合田知世さん(「怨望」について)、2位の三ア奈津美さん(「政治」について)、3位の椎名日菜さん(「真実」について)は、それぞれ、主観的でもなく客観的でもなく、福沢の言葉の和音をそれなりに表現できていたように思う。
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