●選んだテーマ「真実」
「真実」の章には、物事を何でも信じる世界には嘘や偽りが多く、物事を疑ってみることで真理が見えてくると書かれている。私が「真実」を読んで特に興味を持った所は、「疑いの世界に真理多し」だ。私は今まで、何かを疑うことはあまり良いことではないと思っていた。理科の実験やテレビで見るマジックなどを疑ってしまうことはある。しかし、普段の生活の中で何でもかんでも疑ってしまうと、一生疑ってばかりで何にも信じることができない人になってしまう気がしたのだ。それに、何かを疑ってみると、その周りの物まで疑ってしまい、きりがなくなる。例えば、なぜ地球にだけ人間がいるのか、そう考えると、なぜ地球はあるのか、地球は何でできているのか、星はどうやってできたのか、宇宙はどうやってできたのか、次から次へと疑問が生まれる。だから私は、疑いをそれ以上考えないで、今まで生活してきたのだ。
文明を進歩させた人々が「疑い」という一点から出発して、真実を発見したと知って、とても驚いた。そして、なぜか親近感を感じた。それは、有名な研究者でも、自分と同じように、最初は素朴な疑問を持っていたからだろうか。
私は小さい頃、公園や庭に行ってアリの巣を見るのが好きだった。アリが巣にもぐっては土の塊を持って出てきたり、何かをかついで巣にもぐっていったりするのがおもしろかったからだ。ある時、私は一つの疑問が浮かんだ。アリの巣の中はどうなっているのか。母に聞いて、一冊の図鑑を買ってもらった。その中にはアリの巣の断面図が描かれていた。私はそれでアリの巣の中を理解できたが、本当にそうなのか少し気になって、またいつものようにアリの巣を見に行った。そして、近くに落ちていた軟らかくて長い枝を巣の中に入れてみた。すると、驚くほど深く枝が入る。少し入っては曲がり、少し入っては曲がる。分かれ道もあった。頭の中で巣を描きながら、とても興奮したことを今でも覚えている。小さいながらも自分で本当のこと、つまり真実を確かめることの楽しさを知ったような気がする。しかし、その楽しさもそれきりで終わった。
誰だって一度は何かを疑ったことがあるだろう。有名な研究者も私も最初はみんな同じなのだ。では、なぜみんな疑うことはしているのに真実を発見することができる人とできない人がいるのだろうか。そこに偉大な研究者と私達凡人の大きな違いがある。私達は何か疑問に思うことがあっても、たいてい「当たり前」としか思わない。その点、研究者はその「疑問」を当たり前で終わらせず、真実にたどり着くまで苦労しながらも研究を続けていく。研究をするのは決して簡単なことではないだろう。何度も失敗して何度も大きな壁にぶち当たるからだ。けれど、真の研究者はそれを乗り越えていくのだ。長い年月をかけても発見につながらないかもしれない。幸いに真実にたどり着いた時の喜びと嬉しさは表現できないほど大きいものであるだろうが、その過程にこそ意味があると思う。私達が「疑い」を「当たり前」だと思うことよりもよっぽど楽しく、興味深いことではないだろうか。
福沢諭吉は研究や探究を尊重した。この章では西洋文明を軽々しく信じている人達を批判して、真実を明らかにするように言っているのだが、根本には真理を探究することを重んじる精神があると思う。それには、信じるべきものを信じて疑うべきものを疑う取捨選択を正しくするのが必要だ。つまり、何でもかんでも疑ったり信じたりしてはいけなくて、その中でも何を信じて何を疑うかが大切なのである。
私は今まで、疑いを避けながら生活してきた。時々疑うことがあっても、他のものまで疑いすぎてしまい、正しい取捨選択が全くできていなかった。世の中には私と同じような気持ちの人がたくさんいるのではないだろうか。そんな人達に私は言いたい。まずは学問をしっかりするべきだと。私はこれから、正しい取捨選択をするために今よりも熱心に学問をしていきたい。そして、いつかは真実を発見できるようにがんばりたい。
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