●選んだテーマ「国家」
「国家」。この言葉についてどれだけの人が考えているだろう。私自身は、メディアが毎日報じる政権批判を受け、「今の政治はよくない」とつぶやく程度が国家に対する向き合い方であった。しかし、それ以外に方法がないのだという言い訳も自分の中で響く。高校生が国家について考え、議論する場などほとんど皆無に等しい。したところで、実際に国家を動かす官僚に声を届けることなどできないのだから無意味である。そう考えていたからこそ、私は最後の章である「国家」を特に格別な思いで読んだ。
福沢諭吉先生の「国家」への意見は明治時代から現代へ時空を超えて届けられる通告なのかもしれない。そう感じるほど、今に通ずることがこの本には書いてあった。
まず、国民の気力が日に日に落ちているということ。これは今で言う、現代の若者が世界に出ることを拒み、留学人数が減少している問題であると考えた。「文明の精神としての国民の気力は、日に日に退歩している」という記述のように、一定の経済水準に達した状況から、あえて世界に飛び込むことを拒む現代の若者と重なる。先進国として豊かさを追求したい国家と、対照的に消極的な国民像が浮き彫りになっているのだ。
次に、文明を作るものは民間人だということ。この言葉は、「国家を動かすなんて関係のないことだ」と考える私にとって、鮮烈な言葉であった。書かれているように、西洋諸国で文明を作ることで国の発展に寄与した人はみなミドルクラスである。文明を作る、つまり、国の発展へ貢献する人は、私でも不可能ではないのだ。そうであれば、冒頭での「高校生だから国家について考えるのは無意味だ」という考えは通用しない。国民が国家の発展に向けて主体的に行動するという気風は、現代に足りない重要な要素である。
そして、本作品における諭吉先生の最後の主張となる「百回の説明より一回の実例を」。国民が政府の玩具としてではなく、政府を刺激する力となるために実際に行動に移すことで、国民の力と政府の力のバランスをとることができる。この言葉が、何よりも今現在の問題を貫いていると感じた。
以上の印象に残った三点から、私が感じたのは、「国民自身が行動する主体であるという認識を深め、政府に促していく必要がある」ということである。その主体として、特に学生である私たちから変わらなければいけないのである。「国家」について、テレビの報道のみならず、新聞・書籍という周囲にある情報から、知識を組み立てる。そして、友人と話をしたり、家族と話したりするだけでも子どもが「国家」を考える行動として十分であると感じる。また、国を動かす仕事をされている方や、NPO法人という団体を自ら立ち上げ「国家」に携わる人々と直接出会う場を、中学生や高校生が体験することも重要な意味を持つだろう。なぜなら、私自身もそのような方との出会いによって、日本国の政治がワイドショーで報道されているような悪い印象が変化したからである。「こんなにも何かを変えたい」と思い、行動する人たちがいるのだ。今すぐ私ができることはなくとも、「国家」を刺激しようと行動に出る人たちを応援することは可能である。それを実行しながら、自分が「国家」とどう向き合っていくか、改めて考えていきたいと思う。そして、いつか日本を発展させる文明人の一歩を押せるような、追い風を作れる国民でありたい。
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